見る事

2010.9.26日々のこと

 昨日、大判出力をさせてもらっていた。させたもらう度に設備が変わっていくので、毎回新鮮。

 僕は大判出力を人に勧めている。それは、自分の未熟さに気付きやすいからであり、必ず、小品を制作する時にも役に立つからだ。出力方向もデフォルトの状態であれば、天地が逆の状態で出力されてくるので、普段とは別の見方が出来ると共に、出力は自動で進んでくれるので見る事に集中することが出来る。絵画でも彫刻でも映像でも、手を動かしながら完成に至るものの場合、「あれもこれも」と欲が出てくる場合があるだろう。つまり、「本当に必要な動きなのだろうか?」という精査がされにくいということだ。しかし、否が応でも見る事をさせられれば、「本当に必要なこと」は自ずと見つかってくるし、確信は得られる。

 「否が応でも・・・」と書いたが、出力されている場に自然と足が向かってしまうのだ。作品のことが気になるし、出力が進んでいくことが興奮するからだ。大判なのだから出力が終るまでに30〜40分以上はかかっているが、夢中になって見てしまう。

 夢中になってしまうからこそ、僕は作品をつくるのだろうし、自動で出力が進むからといって関係のないことをしている人達を見ると疑問に思うとともに作品(?)が不憫になってしまう。

 しかし当たり前の話なのだが、そのような人達の作品を誰かが求めたり、作者が成長するということを僕は見た事がない。僕達は視覚媒体の作品をつくっているのだから、いつでもどこでも見る事が大切になってくるものだろう。

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