作る立場の違い

2010.7.4日々のこと

 「カールじいさんの空飛ぶ家」(2D)を観た。無駄な箇所がなく、何度か泣いてしまう場面も。ただ、悪役の最後のシーンが子ども映画として疑問に思ったのだが、「特典映像」でそのことを制作者たちが語っていた。その「特典映像」を観ていて思ったのが、「制作者としての潔さ」に共感を、「物語の登場人物の人生を左右させてしまえる立場」に気味の悪さを感じたのだった。前者は試行錯誤の末にそれを選択するという制作者として当たり前に必要なことだと言えるし、後者は作る側にいる人達には当たり前に存在している要素であると言える。料理でも建築物でも美術作品でも、制作物は作り手を通して作られることになる。つまり、作り手のさじ加減で、どうにでもなってしまえる訳であるが、作り手の意志を超えて制作物が出てきてしまう場合があるのも事実だろう。作品に動かされて作ってしまう、と言うのが適切なのだろうか、そして、そんな作品が良いと思えるからこそ、日々をその作品に応えることが出来るように神経を使い、身体を大切にする。どれだけ、正直に応えられるのか、従事するのではなく、いかに応えるのか。このことを、私は以前から「即興」という単語を用いて説明してきたのだった。作品と作者、この2つ(2人)が無理なく出会い、骨身を削ることになるけれど楽しい(楽しいけれど苦行のような)、そんな瞬間に「良い作品」が世の中に誕生するように感じている。

 以上は作家としての考え方だが、そうではない人達に藝術の素晴らしさを伝える時は少し異なる。

 例えば、石の使い方。石を人に投げて暴力を振るい金銭を奪う道具として使う人達もいるだろう、しかし、石を使い地面に絵を描けば、たちまち美術の道具となる。1人でも2人でも複数人でもいい、その場で「絵しりとり」ができるし、「けんけんぱ」(遊び名がわからない)だって出来る、ただ単純に絵を描くことに集中したっていい、しかし、そこにあるのは笑顔だ。楽しいっていう気持ちなのだ。何かを傷つける道具でもある石が、笑顔を誕生させることが出来る道具に早変わりするのだ。私は専門外の人達に伝えるときには、この可能性を見出している。けれども、本業にしている人間にはこれだけでは「とるに足らないもの」が誕生してしまうのが、不思議な話だと考えている。

 おそらく、成長するにしたがって、「自己陶酔」と「逃避」に逃げ込んでしまうのだろうと考えられる。しかし、「そうなってしまう人達」と「そうならない人達」との違いは何なのだろうかと、最近、疑問に思う。

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