作ることの何でも屋

2010.6.7日々のこと

 久しぶりにDreamweaverを触ると少し忘れている感があることに気付く。新たなことをやろうとして、既にあったことを忘れていてはキリがないが、作ることにおいての何でも屋になってきたのが、何か肩書きを持って振る舞うよりも、何も肩書きがない方が性に合っている感がある。そういえば、私の名刺には昔から肩書きを書いてこなかったような・・・あるデザイナーを紹介してもらった時にそのことを誉めてもらったことを覚えている。そんでその人が手掛けた分厚いカタログをもらったことをしっかりと覚えている。

 

 話は変わり、映画を4本観た。

 

 「重力ピエロ」、「少年メリケンサック」、「南極料理人」、「ゆれる」(tvk)

 

 「重力ピエロ」は良い映画だった。ストーリー構成など先読みが可能なものであるが、単なる家族映画ではなく、とてつもなく重くジリジリとした感覚を持つ映画であった。悩み抜いた末の善悪の判断を他人に委ねられてしまうのが法というものだが、そんなものでは真の善悪は判断できない。しかし、だからといって・・・(この先はストーリーに触れてしまうので割愛)・・・いや、でも・・・という考えが残る映画。映画としてのテンポも悪くないので、予告編やTVCMなどで軽い家族映画や人気(若手)俳優を揃えました感が出ていたのは、勿体ないような気がした(私もそれで観るのをためらっていた)。

 

 「少年メリケンサック」はまぁ、楽しいよね。ってことで。

 

 「南極料理人」を観ながら食べることについて考えるが、そういう時には決まって「生きるために食べる」のか「食べるために生きる」のかをどちらを選択しているのかを考える。他人からは「それではやっていけない(生活が出来ないという意味だろう)」と説教にもなっていないことを当然のように言われてしまうことがあるので、どうやら私は「生きるために食べる」方のようだ。

 

 ただ、私も料理をするし、けっこう色々なものを食べているらしい(料理名を覚えていないことが多い)ので、食に対してこだわりや楽しみを見出していると思われることがある。しかし、正直なところ、何でも良いのだ。生きるために食べているにすぎない。自分のために料理をするのは実益でしかないし、コストパフォーマンスの低いものや不味いものを食べるのが、馬鹿らしいからだ。作ることに楽しみを見出している時は、自分が食べることよりも他人に食べてもらっていることの方が多いし、作るという以上、「手放しで美味しいものを作ること」に意識は向けられる。つまり、「美味しい」という感覚を抱けるものであれば、何を作ろうが、こだわりはないのだ。しかし、「美味しい」という感覚に向けられるのだから、食材の性質や料理を出す順序、組み合わせなど、考えることは多岐に渡る。そこからまた、「生きるってどんなこと?」という問いについて考えることへと繋がっていくのだ。そして、「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉について考えるのだ。

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