不況も人間がいるからこそ

2010.4.19日々のこと

 人と話していても、マスメディアから流れてくる言葉にも「不況」という単語が頻繁に登場する。しかし、その度に思うのだが、「不況」というものが宇宙人襲来のように突然現れたり、手放しで存在しているとその人たちは思っているのではないだろうか。どちらも不正解であり、不況というのは、人間が存在してはじめて生じる現象なのだ。そして多くの文化人が批判しているように、資本主義が全盛になるにしたがって不況の規模が大きくなり、生じる頻度が上がっている。資本主義では「お金」が第一になるのであるから、人を育てることや人間が成長することよりも、低賃金で労働してくれる人や即戦力を求める。お金が第一なのであるから、そのことが簡単に直接のお金儲けに繋がるのだから当たり前である。しかし、人間が成長しないということは、考える力が育たないということであるから、お金に関する利益で人を裏切ることが当たり前になったり、考える力がないのにお金さえあれば一国一城の主になることが出来てしまうのだ。それゆえ、現代は有史以来、奴隷が最も多い時代となっているのである。この流れの結果が、不況なのである。つまり、考えることをしない人間の多さが不況に繋がるのである。

 そして、考える力がない大人たちを子どもたちが見続ける。その結果、将来の夢に「お金儲け」を挙げる子どもが増えていくのだ。そんな子どもたちが大人になるのだから、お金儲け狂騒は進み、現代以上に不況は増大していくだろう。それを防ぐためには、一人一人が考える力を持つ必要があるのだが、そのためには「育てる」ことが必要なのだ。

 その論理がわからずに、不況の中、いかにして自分が生き残るかしか思い浮かばない人と話すと、自分の無力さを感じるとともに異様に疲れる。私は私以上の存在が好きだ。しかし、私以上の高知能指数は求めないが、せめて成長する気持ちがある人と話をしたいものだ。そんな人が少ないのはわかっている。では何故、私は話をするのか。答えは簡単だ、関わった人が少しでも考える力を持って欲しいからである。しかし、成長しようとしている人と出会うのは、極稀であり、無駄に年齢を重ねている人間と話をすると異様に疲れる。

 これが私の我儘であるのならば、やはり私は一人で全力で考えて生きて、死を選ぶしかないだろう。生きることよりも死ぬことの方が有意義になるのであれば、どちらを優先するのかは明白である。それが出来るのは、人間だけだ。

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