いつ死んでも大丈夫

2010.3.16日々のこと

 最近、全てが大丈夫だと気付けた。真理に気付いたときのようにパッと開けた感覚だ。

 例えば、今も創作が続いているのだけれども、もしも今何らかの理由で創作が出来なくなっても大丈夫であり、その究極は死んでしまったとしても大丈夫なのだ。そして、私の死後、誰かがこれらの作品を継いで創作することが「本当にやりたいこと」であるのならば、継いでもらっても大丈夫だし、そんな人が現れなくとも大丈夫。

 それと、作家であれば展示と繋がっていくと思われるのだが、作家(作品を創る人)というのを突き詰めていった結果、展示をしなくとも大丈夫となったのだった。むしろ、そんな状態で展示に手を上げてくれる人の方が、展示や作品への考えを話していくとより生産性の高い結果になるような計らいをしてくれる。それは私も同じであり、展示ということになれば、どんなに些細なものであってもその展示で最高のパフォーマンスを発揮できるように考える。ということは、展示をしても大丈夫だし、しなくても大丈夫ということだ。

 これは他の事柄もそうであり、何かを手に入れなくても大丈夫だし、何をしなくとも大丈夫なのだ。我執(執着、こだわり)が無い方が心を真ん中に持ってくる事が可能となるのは本当だった。だから、他の人の展示を見なくとも大丈夫だし、見ても大丈夫、空を見たり、風の匂いを嗅いだり、石を拾って触ったり、草花の擦れる音を聞いたり、食い物を食べたりすることと何ら変わらない。心を真ん中に持ってきた末に、感覚や思考が高くなったと言うべきか。

 むしろ、どんな大御所の展示であっても中堅であっても若手であっても、中途半端な欲望が見て取れる。その反応は、専門性からは遠い一般の人々の方がダイレクトに反応を示してくれる。それは、さもしい自己顕示欲、自尊心、自己優越感ではないのかと。しかし、この中途半端な欲望がなくなればなくなる程、実は、強く圧倒的な作品を表出することが出来るのだった。このことに気付くと、自ずと心身は真ん中に持ってくるようになる。すると一層、強い作品と出会うことになってくるのだ。

 これらのことは他の業種にも当てはまり、いつも言っているように、「人はいつ死ぬかわからない」→「今の一瞬しかない」→「本当にやりたいことをやる」→「本当にやりたいことをやるようになったら、人は一生懸命に今を生きる」→「一生懸命に生きている人は考えることをしている」→「考えることは人間という種族を真っ当に生きること」→「真っ当に生きている人は、自分のためにもなっているし、他人の役にもたっている」→「真っ当に生きることは真っ当に死ぬこと」→「人はいつ死ぬかわからない」。大まかに流れを書くと、こうだろう(途中に安いこだわりがなくなったりが表れてくる)。

 つまり、先のように書いていると「やる気がない」と言われてしまいそうだが、実は、「人はいつ死ぬかわからない」という時代も文化も超えた当たり前のことを理解し、今を全力で一生懸命に生きるとこうなるということなのだ。そうすれば、今、死んでも大丈夫だし、生きていても大丈夫ということになるのだ。

 そう、「いつ死んでも大丈夫」、これって本当に凄いことだなぁとつくづく思い、そんな私は今日も全力で生きるのだ。

コメントを書く