子どもの国から考える

2010.3.15日々のこと

 最近、ソフトの使い方を覚えている。覚えるにつれて「何故これが必要とされるのか」が分かってくるとともに、「あれとこれをくっつけることが出来たら使い勝手がいいよなぁ」と思う。しかし、「起動が遅くなるよなぁ」とすぐに思える。

 話は変わり、子どもと遊ぶと考える速度が上がってくる。友人とも話していたのだが、子どもと遊ぶとルールが目まぐるしい速度で変化する。その変化は大人達からすると「ずるい」と言いたくなるような変更なのだが、子どもの側からすると筋が通っているのだ。そこについていった方が楽しめる事もあって、「ずるい」とは言わずに「なるほど、じゃあ、それでいこうか」という方向になると、相手(子ども)の言っている理不尽なルールについて考えることになるのだ。目まぐるしい速度で。こういうことをやらせてもらうと、子どもは師匠にあたるし、そうなれるのは本人の向上心の問題である。

 しかし、いつも考える事がある。もしも「子どもの国」というのが存在したのなら、戦争はなくならないだろうと。先のようなルール変更は子どもの側からは筋が通っているが、全ての子どもが当てはまるということではない。そして、そこでは意見の平等性は首を傾げるものだ。バシバシとルールを変更する者がいたら、それに異を唱える者もいるだろうし、なかなか言えない者もいる。それでも構わないだろうが、大人になるにしたがって「自分の考えを述べることの重要性」に気付いてくるし、それは「本当にやりたいことをやることの重要性」や、「一生懸命生きることの重要性」、「人はいつ死ぬか分からないということの重要性」にも気付いてくる。けれども、そこは「子どもの国」。気付かないまま、つまり、耐える者は一生耐えることになるわけだ。

 上記の重要性に気付いていない、言い訳ばかりの大人が多いのも現代だろうが、そんな大人達なら「耐え続けるストレス」の結果、自分の肉体や精神がどうなるかは一層わかるのではないだろうか。つまり、「子どもの国」というのが本当に存在したのなら、破綻はするし、無駄な血が流れるだろうと予測ができるとともに、先に挙げた重要性を分かったフリをして、考える事を放棄し、言い訳ばかりをしている大人達も、子どもだと言えるのである。

 しかも、そんな大人達に通じる言語表現をしなければ解釈力・語彙力の低さを棚上げして「わからない」の一点張りになり、通じる言語表現をすれば「わかったフリ」をするのだから厄介だ。しかも、数が多い。

 けれども、先日嬉しいことがあった。それは、大学時代からの友人の1人がそれに気付いたということ。「わかった(フリ)」ではなく「わかってきたんだ」と彼は言った。そして、「始めの一歩を踏み出す勇気の重要性」を話してくれたのだった。彼と2人で話したのは以前にもあったが、先日の3時間ほど有意義だったことはなかったし、「今の一瞬一瞬を一生懸命生きる事の重要性」に気付いた彼の存在はとても嬉しいものだった。

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