前回の続き

2010.2.1日々のこと

 客観ということは完全にはない。むしろ何処まで行っても主観しかないと述べた方が適しているだろう。けれども、人はこういう事を聞くと、客観的な姿勢を持つ事を放棄していたり、融通が利かないと思ってしまうみたいだが、それは浅はかだ。

 人間には主観しかないために、客観的に考えたらどうだろうかと、最初の考えと異なる考えを導き出そうとする。即ち、これが客観的な姿勢を持とうと努力することである。たとえ他人の意見を聞いても、その意見から感じ、思い、考えるのは聞いている自分自身でしかなく、いかに客観的に努めようとしても客観ではない。

 再びこのようなことを聞くと、「じゃあ、皆、自分勝手に振る舞っているじゃん」と分かった風な口をきく者がいるが、それもまだ足りていないだろう。先に挙げたように、結局、主観でしかないと理解した時に諦めるか、当初とは異なる考えについて考える事を努力するかが、浅はかな者と、知恵のある者との違いである。

 これはまた藝術についても同じ事が言える。

 「結局、主観じゃん」と知った風な口をきき、悟りを開いたかのような風体を見せ、つまらなく、汚く、「だから何?」と言われてしまう作品を排出し続けてきた現代美術以降、人々が「藝術って必要ないじゃん」と言ってしまうのも納得である。藝術は本来、作品を媒体にして普遍的な美を追究する領域だった。哲学も宗教も普遍的という点では同様である。では、普遍的とはどういうことだろうか? それは、全ての人と向き合うということであり、全ての生物、全ての存在と向き合うことだ。全てなのだから、現在生きているもの、既に死んでいるもの、これから生まれるものと向き合うことである。それ故、現在67億の人口があったとしても、それだけではない。何那由他、何無量大数かもわからない。とにかく全てであり、その全てには自分自身をも含まれている。

 この全てと向き合うことを想像した時に興奮しない、もしくは想像出来ないのならば、君は藝術には向かないだろう。例えば、全てが敵であったとしよう。圧倒的な大自然と対峙した時のように、僕は笑ってしまいたくなる。そして、澄んだ気持ちで「じゃあ、やり合おうよ」ということしか思い浮かばないのだ。挑戦することしか思い浮かばないとも言っても良いだろう。とにかく、そんな数(?)なのだから科学の粋が通用するはずがないのは容易に想像できるだろう。弾を装填している間にやられてしまう。つまり、この身ひとつ、この拳ひとつしかなくなってしまうのだ。同様に、勝ち負けなんて気にしている余裕があるわけがないのも想像に難しくないだろう。つまり、今のこの瞬間しかなくなってしまうのだ。

 ほらね、いつも言っていることと辻褄が合っているだろう?

 自分しかいないと本当に理解した者は、他者についても考えようとするし、一生懸命に生きている。そして君が、そのように生きたいのならば、先ずは自分自身、主観について考えることから始めるしかない。

 「自分の本当にやりたいことって何だ?」
 「そもそも、自分って何だ?」
 「自分自分って自分という人間や意識は存在しているのか?」

 など自分の存在を揺るがすところまで考えるようになれば、媒体に執着したり、領域に執着したりすることはせず、自分のやるべきことが自ずと見つかるものだ。それが自分自身への本質であり、本質ということは真理である。真理ということは普遍的である。この文章は、文章であるということは言葉である。その言葉自身に何か、お酒や雑貨なんかの物品は関わっていないし、1円も費用がかかっていない。

 つまり、0円で人間は考えることが出来るし、変わることが出来るのだ。

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