映画から考える

2010.1.26日々のこと

 映画「ミリオンズ」を観ていた。「子ども達に堂々と見せられる映画を作りたかった」とダニー・ボイル監督の弁だけあって、「善いことって何?」ということに始終し、お金の出所に戸惑いながらも善悪と向き合い進んでいく主人公の物語。単なるファンタジーとして捉えられたり、「お金持ちならあぁいう終り方のようなことをするかもしれないけれど」と思いがちだけれども、実はそうではない。

 全ての善悪というのは本人の中にあるものであり、映画に出てくるような、もしくは学校を建てたりとニュースに取り上げられるようなことだけを指すのではない。例えば先日、K駅に向かう電車の中で、お菓子の袋の切れ端が落ちていた。それは、一直線に切り取られた濃い赤色のゴミだったので、白っぽい床には当然に目立っていた。僕はそれを拾い、K駅から友人の家に向かう途中にあったコンビニのゴミ箱にそれを捨てた。僕が拾わずにあのまま電車の中に放置していても掃除屋さんが掃除をしてくれていただろうし、もしくは別の誰かが拾っていたかもしれない。けれども大事なのはそこではない。

 自分がそれをするかしないかだ。何故なら、事の善悪というのは他の何者かに因って規定されるものではなく、自分自身に因って生じてくるものだからだ。「他の誰かがする」という者は、絶対にしない。他の要因(国家、法律、他人)に求める人は、法律と道徳を混同していたり、道徳と道理を同じものだと思っていたりする。それ故、理解したような気になってしまう。社会を理解したように思ってしまう。悪いことが起きると社会や会社、他人のせいにしてしまう。義務や責任という言葉を他者に向け、権利という言葉を自分のために使用するが、他者に向けられた義務や責任という言葉に因って、自己にも義務や責任が生じてしまったことに気がつかないような人達である。それもこれも「誰かがする」という善い行いの放棄から始まっている。それは即ち、「考える」という人間の最大の特徴的行為を放棄していることにもなっている。善悪の生じる源が自己に起因するものならば、その自分自身は「何が善」で「何が悪」なのか、そして「善とは何か」、「悪とは何か」について考えなければ行いに転じることは出来ないのだから、考えることが必要になってくるのだ。

 こういうことというのは僕の関わる作品や文章にも表れている。人間はどんな劣悪な環境でも成長することが出来る。けれども、発信する側に立つ以上、手放しで成長を促す、もしくは特徴を伸ばす発信をする必要があると考えている。整然としたものだったら整然さを、清廉さであれば清廉さを、激しさであれば激しさを表す必要があると考えており、敢えて反面教師的に発信する必要はないと考えている。むしろ、反面教師的に見せようとしている作品群や人の振る舞いは、見ていても純度が低い場合がほとんどである。純度を高めることを望めば望むほど、そのものの性質を見極めようと洞察力を高めようとするし、その性質を発揮させながら、どうすればそれに関わった人達にとっても最善となり得るのかと考えることをするものだ。

 だからこそ、手放しで善いものというのを僕は追究しているのだ。

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