「一生懸命」と「幸せ」

2009.11.28日々のこと

 友人に誘われてサルガド展(セバスチャン・サルガド「アフリカ」)へ。

 数年前にも東京都写真美術館でサルガドの展示が催されていたと思われるが、その時の方が圧倒されたような感じがしていた。どこかでビジュアルに慣れてしまったのだろうか、ドキュメンタリーの部分であれば他の映画や文献などで知り得る事が出来るので、それらをなぞるような感覚で見ていた。そして、主旨とは少し離れる画の方に惹かれたのだった。

 それよりも有意義に思えたのが、展示を見終わった後、友人とアフリカ地区の話から「幸せ」の話をしていたときだ。8時間ぐらいだろうか、サシで「幸せ」について話を交えることが出来たというのは、とても大切な時間だった。

 「どんな状況であれ、一生懸命に自分に正直に生きる」ということが「幸福感」に繋がっていくのではないだろうか(「正直に生きる」ということと「自分勝手に振る舞う」ことの違いは、過去のブログに書いてあるので割愛させて頂く)。個人個人がそのように生きることが出来れば、所謂、「ブラック会社」というものも運営が出来なくなるし、仮に、衣食住のどれかでも著しく欠けてしまい、「幸せ」について考える力や気付く事が出来ないのであれば、欠けているものを与えることから始めても良いと考えている。

 そのことに気付いた後、人は幸せになるのではないだろうか。人は誰でも生まれ、死ぬ。そのことにおいて人は平等だ。しかし、不幸な表情のまま死んでいく者がいたり、満ち足りた表情をして逝く者がいることも事実であり、人はその一点においては異なる。そして、死んだ後は、気付く事も考えることもやり直すことも出来ない。そうであるのならば、「その日」が訪れる前に、気付けた方が良いとは思わないだろうか。

 「大変な状況にいる者は、そんな悠長なことを言ってられない」というのであれば、欠けているところを補うことから始めても良いはずだ。自分一人でそれが出来ないのであれば、調べれば数多く仲介してくれるところが存在している。そして、考えられる状況を得た後に、考える事や藝術に触れることを始めても、遅くはないと考えられる。方法論は数多く存在してあり、「こうしなければいけない」という壁や限界(無理、苦手、不器用、不可能など)は、自分自身の勝手な思い込みなのではないだろうか。人はもっと一生懸命、頑張れるはずだ。それは僕にも当てはまり、もっと頑張れるはずだ。

 創作から離れた時間だったが、人としてとても貴重な時間を過ごす事が出来た日だった。

 

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