偶有性の後

2009.4.19日々のこと

『MD現代文小論文』という受験参考書を読んでいた。

別に再び大学受験を目指す訳でもなく、受験時代には別の参考書を使用していた。
何故、いまさらこのような書物を読んでいたかというと、古本屋で105円ということと冒頭に書かれていた「もうひとつの<自由>-思考のヒント-」という受験生用の講演に加筆したものが良かったからだ。

読んだ後の感想としては、さすがにこの先にいるけれども、実感として整理しやすくなる内容だった。

その中のひとつ「偶有性(他でもありえた)」っていう言葉について話していこうと思う。
この文章の中での偶有性は、生死についての偶有性を特に取り上げているのだけれども、文章に登場してくる生死の偶有性に直面した実体験者と同様に僕も直面せざるを得ない状況というのがあった。
それが、最近もある人に言った「人の生死に必然というのはなくて、あっけなく死に、あっけなく生き残るというとても微妙な偶然性にあります」という考え方に結びついている。

それはご先祖達や夭折した人たち、自ら絶った人たち、そして、僕にも同様のことが当てはまり、僕が墓参りになどに行く理由の1つは、この生死の偶有性を希薄なものにしないために、わかりやすい場所(墓石)に行くというものが挙げられる。
「もしかしたら僕もそっち側にいたかもしれないけれども、今、僕という存在が認識している限りでは僕はこっち側にいる」という結果を形骸化させないためともいえる。
そして、この生死の偶有性に直面し認められないでいるとアイデンティティーが揺らぎ、離人症のような症状が発症する(そのような人を例に挙げている)。

おそらく僕はこのような生死の偶有性を認め、その上、もしくは中で生きていることを(選んだのではなく)認めている。
だから、作品のために生きていることへ何の抵抗も抱かないし、「作者のため」という逆転が生じそうになると途端に不快感に襲われるのだろう。

このような生き方が一神教圏の人々にみられる生き方だというのは重々承知しているが、それを知ってか知らずか、はたまた僕を心配してかただたんに疑問に思ったからかはわからないが「どうして海外に移らないの?」という質問には嬉しさと悲しさが入り交じる。

このような質問などには、僕が生命体として生き残ることに比重が置かれているように思え、先ほど挙げた「作者が生き残るため」という逆転が起きてしまう。やはり僕は、作品のために僕の生死などもそこら辺に転がっているだけでも構わないという考え方に行き着くので、その土地でなければ創れないような作品でなければ移住する必要性が見つからないのだ。

解りやすい単語で言うと、正義、信念、信仰などというのかもしれないし、僕が向こうにいったときに先にいった者たちが会話や議論をしてくれるなんていうロマンチックなことは信じていない。

ただあるのは、無惨だろうと栄光だろうと単なる結果と、それを解釈する人間だけだ。
だから僕が結果だけになった時に残った人々の間でロマンチックなことが起きるなんて信じておらず、生きていると認識しているうちは作品のために生きることにしか考えが行き着かないので十分だ。

その深度を深くしていきたいのが今の指向だ。

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