自由と解放

2009.4.16日々のこと

大判プリントで一日が終る。

色々な暗室やアトリエなどで創作をしても、普段と変わらずに進められるのは私の長所かもしれないが、やはり自分の暗室でプリントをするのが一番かもしれないと思った。ミヒャエル・エンデは『自由の牢獄』で、自由すぎることの不自由さを述べているが、自由意志の在処を考えるまでもなく、選択故の自由の時点において「自由」というよりかは「解放」という言葉の方がしっくりくる。それ故、私が「自由」について話をするときは「どこまで解き放つことができるのか」というような言い回しをする。

というのも、より多くの人が許してくれる「自由」というのは、私にとっては「自由」ということではないことの方が多く、私が「自由」のようなことをすると大抵の場合、「自由」であることを許してくれた人の範囲を飛び越えてしまう。すると、その人は私に対して「制限」や「禁止」を強制してくるので、私にとっては何一つ、「自由」ではなくなるのだ。

だから学生時代の藝術系科目での「主題は何でも(自由で)O.K.です」というようなことを言われても、私だけ強制されることが常だった。

そんな時に、「先生のいう「自由」とはどのことを言うのですか?」と尋ねると、「何でもいいからやり直してくれないかな」という解答にならない返答を受けていた。

このようなことを繰り返すうちに、言葉を疑い、考える癖のようなものが身に付き、それが性格のようにもなってしまったが、別段、後悔はしていない。

しかし、その性格のようなものが、「幸せ」をしっくりと抱くことが出来ないことにもなっている。

「幸せ」のためにやるのではなく、「やらなきゃならないことをやるだけだ」という使命/理が私に作品を創らせている。

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