草稿のようなもの2

2009.3.22未分類

「『最期の自然』の着色が終った。寂寞感というか、荒廃、荒む、といった感じだ。「もう終った」というような思いが広がっていく。『drunker×2』や『光学装置の記憶』も手が付かないようにひっそりと沈んでいく感覚がしている。終わりだ。(3.20.09 13:01の制作日記より引用)」

作品があって、私がいる。すなわち、私は作品の媒体物として存在していると思っている。これは信仰のレベルに達しているといっても過言ではなく、「何のために生きているのか?」という問いへの解答としても君臨している。この媒体物としてのもてるもの全てをかけたのが『最期の自然』であり、創作に入る前から先に書いたような感覚を抱くかもしれないと予想していた。そして、「終わり」を感じてしまった。その洞察を深めたくて、20日は制作日記を書いてから夜が明けるまで作品と向かい合っていたのだが、感覚は変わらなかった。

そんな状態の中で3回目の在廊日を迎え、都立大学駅にあるテルメギャラリーに行ってから会場入りをした。既に会場には来場者がいて、みるみると満席、立ちっぱなしの状態になり、多くの方々と話をした。面白いのは、写真新世紀関係、大学時代、全くの他領域の人たちが同じ場所にいて、初対面で他領域の人たちとも話をしている光景が普通にあったことだ。私が話すと、作家たちとは作家業や作品のこと、サラリーマンたちとは世間話や下ネタなどと方法論がわかっているので新鮮味ということでは、知らない友人同士が会話をしている光景を眺めているときの方が新鮮な感覚をもっていた。

ただそんな風に眺めているときというのは、「あぁ、T大学駅にいたひとが可愛かったなー」や「あぁ、あのひとも綺麗だなー」など鼻の下が伸びていることが多々ある。

そして、作家業の話をした人たちの新作を観たいと思ってしまうし、観たらもっと話をしたいと思うんだよね。それは中島さんにも秦さんにも東京くんにも同様に思うことで、その作品が良かったらやっぱり悔しさが湧くのは当然なんだよね。なぜなら、土俵に上がっているからで、私たちは鑑賞者になっているときでも創る土俵に上がっているからなんだろう。

けれども、20日の感覚は薄れていないまま22日のAM8:14を迎え、たしか今日は「新日曜美術館」が放送されないので風呂に入って歯を磨いて2日分の睡眠をとろうと思っている。

※展示をすると毎回色々なものを頂くので、毎回励み(?)になります。ありがとうございます。これが朝食や肴になります。

コメントを書く