悔しさの先

2009.1.9日々のこと

Squarepusherから「シルベリア19」へ、家のiTunesは飛び出して行く。

昨日、M美大へ友人の作品を観に出かけていた。本人と話をしていると、とても悔しそうにしていたのが印象的だった。「満足」と「認める」ということは全く違うことであり、満足しきった行為や展示、作品を創ることが出来たら、その時点で生涯を終らせるべきだろうと、僕は考えている。だからといって、満足しないように努めるというのは本末転倒であり、究極=満足を追求している。作品が完成した時や展示の搬入が終った直後は、かなり満足しきって「これ以上ない」と高揚感と疲労感で満たされている事が多いが、その一瞬後には既に、悔しさを噛み締めている。そして、それを認める事で、より高度な次元へ足を踏み入れることができると考えている。

そのような時は決まって、藝術家として「音速も光速も超えてみたい」と渇望するようになる。

そうではないだろうが、悔しさを隠していなかった友人を見ていて、いつの日かの自分を見ているようだった。

しかし、もう御一方の友人の作品が展示されていなくて残念っちゃあ残念でもあったが、展示されたのなら行きます。

※大量の六角形の箱の上にいたのは『光学装置の記憶』の新作の一部でしたが、気付いた人はいたのかな?ちなみに、「煉獄の魂が燃える、創造の時、その名はシヴァか?」、「深海」、「秋暮れる、君の声」、「生きた大陸」です。どれがどの題か当ててみてもいいかもしれないね。作者と作品と鑑賞者がリンクするっていう一般的には不可能とされていることに挑戦してみてもいいかもしれないね。

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