変わらないのか。

2015.6.13日々のこと

海が見たい。川が見たい。木漏れ日を見たい。自然の中に久しくいないと、自分が自然物であるということさえ忘れ、自然を求めるようになってしまう。
 
しかし、見るということは五感であり、自分の感覚なのだ。つまり、自分次第で目の前にないものでも、実際に見たと感じることが出来る。
 
いつものように、このことを思い出し、社会の中にいても海を見て、川を見て、木漏れ日の下で昼寝をすることが出来る。そうすることで社会の中にいても、自分の心を救う術を持っているが、悲しいかな、実際に行った方が身を委ねることがしやすくなるのだ。「ない」ものを「ある」ものにする感覚を使っている分の感覚を使わないで済むからだ。
 
そうして分かったことがある。CPUの性能が上がるように、俺は、自分の感覚使用量の性能を上げたいのだ。もしくは、性能が上がらないのなら、最期は自然の中で暮らしたいのだ。何故、ないものを見ることができる能力を持っていながら、最期の場所を自然に求めていたのか、単純に能力の問題だったのだ。ということは、たとえ自分の性能がバージョンアップしたとしても、結局は同じことを求めるのだ。
 
社会を作り変えることに興味がなくなったら、俺は社会の中で生活している意味がないんだ、ということに今、気がついた。

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