二律背反。

2015.1.17日々のこと

所謂、一般的な人生を歩めなかった人達がいる。そして、その人達は、一般的な人生を歩めた人達がどんなに想像しても、救うことが出来ない苦しみを抱えている。
 
そんな時、やはり、分かったつもりにさえなれないと、諦めるしかないのでは、と思うのだ。また、それと同時に、興味本位で知りたくなる自分がいることも発見する。
 
それは、自分においても同じであり、入院児童として育った自分にしかわからない思考回路が出来てしまっている。「苦しみ」を「思考回路」と言い換えたのは、苦しみは「分かり合えない」という諦めになり、分かり合えないことが重大ではなくなってしまったからだ。
 
人にはその人にしかわからない苦しみがある。それにも関わらず、多数派が普通(一般)となり、少数派がオカシイとなる。

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