当り前のこと。

2015.1.3日々のこと

自然の中に入っていました。自然の中に入っていると、丁度いい雑音に落ち着く一方、根っこのところから恐怖のアンテナが立つ。今日も例外ではなく、石ころが落ちてくる音ひとつひとつに、獲物もしくは獲物になる自分の境界線がどこに引かれるのか、注意深くなる。同時に、足を踏み外さないように、全身と地球の接着点に注意をおく。
 
人間社会でのゴタゴタなど、この恐れに比べたら取るに足らないはずなのに、社会の中にいると、それが全てかのような気分になる。とても不自然なことだ。
 
僕らは地震のことを忘れ、戦争のことを忘れ、銃に打たれたら傷を負って死ぬし、火がついたら燃えて死んでしまう。山から転げ落ち、その傷によっては死ぬし、寒さでも死ぬ。そして、人生が終る。
 
僕らは当り前のことを、当り前のように忘れ、欲望の争いで一度でも負けたらそれで死んでしまうかのような錯覚に陥る。錯覚は錯覚だと思い出した上で、何が大事なのか、何がしたいのかを決め、動いた方が強い。このプロセスを経ると、「人はいつ死ぬか分からない」と気付き、同時に、「死んでもやり抜く使命」が見つかる。昔の人は「天命」と上手くいったものだな、と思う。

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