自然の中

2014.8.16日々のこと

先日、師匠から養老孟司さんの『自分の壁』を勧められて読んでみると、自分が経験していたことが、そのまま書かれているような気分になった。彼の著書は、既に何冊か読んでおり、彼のわかりやすく軽妙な書き方は好きだ。今日の内容は、彼の本に引っ張られている気がしている。
 

 
生きる理由なんて本当はないんじゃないだろうかーーそんな考えが頭をよぎることが多い。自然の中に入り、環境が自分で、自分が環境という境界が曖昧になってくると、特にそう思う。
 
環境の一部として自分がいる一方で、環境を認識している自分がいる。具体的な形として示すと、円の中にポツンと点を打たれている状態だ。この点が自分として、点の意識が曖昧になってくると千里眼のように、見えてない先の景色を見ることができる。正確にいうと、見えている景色の情報から見えていない景色の情報を予測しているのだろう。
 
そうこうしていると、自然の我執のなさに包まれ、「木は木であるだけ」、「土は土であるだけ」、「水は水であるだけ」ということの真っ当さから、生きる理由なんて本当はないんじゃないだろうか、という考えが浮き上がってくるのだ。
 
僕も含め、「○○をしなきゃいけない」だとか「人と合わせなきゃいけない」だとか、たくさんの約束事の中で生きており、そういった約束事が、生きなければいけない理由になっている。
 
つまり、他人同士という環境で決められた義務として、生きることになっている。その反動で、自己決定、自己責任という全てが自分自身しかいないような生き方を目指すようになる。
 
しかし、木や土、水と同じように、僕らはもっと大きなものによって、生きることを決められているのではないだろうか。そんな風にして思うと、本当に自分の為すべきことに気がついたり、温かい気持ちになるのはどうしてだろうか。

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