普遍から外れている普通

2014.8.9日々のこと

いつから「未来」を見るようになってしまったのだろうか。子どもが将来に夢を見るのとは違い、僕らは現実的な目測としての未来を見る。
 
当り前なのはわかっているが、何か行事があれば、計画を立てる。すると、建設的な未来を見ることになる。「行事→計画」の回数は、年を重ねるごとに増えていき、規模も大きくなり、お金、人数、時間も増えていく。そして、勝ち負けが生まれ、勝っていく。勝者になる喜び、恍惚、カタルシスという麻薬を体感していく。想いが強い者が勝ち、想いが強い者がとことん粘り、調べ上げ、説得ができ、物や関係性、システムを作ることができる。想いが強いというのは、四六時中、仕事をしていることになる。人といるとずっと、こんな生活をしている。
 
並行して、自分の日常でさえも、計画的になっていく。今でもそうだ、新居を探していたが、歯医者に通うことになり、今の住居から離れることや諸々の手続き変更から歯医者を変えることの面倒臭さによって、新居探しは延期した。携帯電話やPCの買い替えも、おおよそ知られている次に発表されるものと比べてからになる。 
 
全てが予定調和になる一方、予定調和に進まなかった場合は、スケジュールが縮まることになっている。この縮まりをクリアーしても、満天の星空のような自分を遥かに超えた美しさと出会えることもなく、「その後の展開の、このタイミングで直していこう」という打算的な出会いになる。 
 
今日死ぬかもしれない絶対的平等性——これを忘れている生き方をしていると、感動が薄らいでいく。命を対価として支払っている感覚がないのだ。

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