自然以外のものの必要性を問う

2014.6.8日々のこと

自然以外のものに感動ができなくなっている。服は最低限のものを失礼のないように使い分ける程度、料理も焼くか生かで十分であり、作品に至っては何もしない方が良い。それ故、大きなものへの圧倒的スケール感の方が自然らしい——とここで、「ミメーシス」かと気付く。要は、自然の模倣であり、より自然的であり、自然に行き届かない仮象性によって感動が生まれる。ここで発生する感動が、自然を観た時に感じるのと同種のものなのかどうかは定かではないが、「感動する」という心的作用としては同じだと言える。
 
先ほど、ポートフォリオの整理をしているときに、「ギフトシリーズ」以降の、プリント+ペイントの一連の作品を眺めていた。その時に気付いたのだが、当時、いや今でもそうだと思うのだが、これを批評するための評価軸は、今、どこにも存在していない。以前、飯沢さんとの対談で、学生時代の講評会でこれ(ギフトシリーズ)を見せたときに、全員が何も話せなかったのは、これを批評するための軸を持っていなかったから、というようなことをおっしゃっていたのを思い出した。
 
そう、僕がやっていることに、批評するための軸は、誰も持っていないのだ。僕も含めて、どんな人でも何かを批評する際、自身が培ってきたものでしか話すことは出来ない。境界線を設けて細分化された世界で格差を生み出し、職業を生み出してきた世界において、「境界線をなくす」という思考の上でつくられたものは、ミクスチャーと言うしかないのだった。
 
しかし、どういうことだろう、これらの作品を見て「良い」と感じても、突き抜けるような感動が生まれないのは。それは、どんなに感動してきた他者の作品を見ても同様の状態になっている。メシを食い、セックスをしても、自然の中で昼寝をしているときのような、至極の感動体験がなくなっている。
 
腕を切る者、いたるところに穴を開ける者の気持ちもわからないではない。唯一の自然である肉体を改変し、そこに伴う痛みは自然である。至極の痛みという感動体験を、その者達は抱きたいのだ。薬物を使い、シャーマンとなり、自分以外の超人間的なカミと一体になろうとする行為も、それに近いだろう。
 
外で昼寝をしている時、空はどこまでも続き、地球を超えて、宇宙と1つになっている。宇宙と1つになった中に、自分が溶けている。浮いているのだ。いや、沈んでいるのかもしれない。どちらもわからない状態で、真ん中に自分が、溶けているのだ。溢れてくる涙は、地球の海になり、吐き出す空気は、地球の大気となる。そうして、地球は既に私だったのだ。これ以上の感動体験を、私は誰と何処で共有できるというのだろうか。

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