Archive for 2015.9

I want to be beautiful. I want to be free.

2015.9.28

これからの人生を考えていて「自由とはなんだろうか?」という疑問にぶつかったが、考えるほどのことではなくて、当たり前のことなのかもしれない。窮屈に感じることが、何よりも嫌いだということを思い出した。人はいつ死ぬかわからないということを、俺が忘れていた。
 
I want to be beautiful. I want to be free.
(美しくありたい。自由でありたい)

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Statement

2015.9.23

My works include a sense that the “do doubt”. Reality in front of the eye is fantasy that made by your brain. A stereotype is prejudice that made by era and culture. Why we suffer? We suffer from the difference between the others. I do not say “admit differences” to majority, but I say “Do not be afraid of differences”. Your fear is fantasy and prejudice that are made by your brain. The reason that I make my works, is to doubt the stereotype in the world, and is to form an answer. It is my mission to be free from the prejudice of those who are suffering.

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白い天井。

2015.9.22

久しぶりに何もせずに過ごしていた。風邪は良くなっているが、ヘルペスも見当たり、痛みと倦怠感が手伝って何処へも行こうと思えなかった。そうだ、宅急便も届く手配になっていたのだった。
 
午前中に仕事を一つ片付けてから映画を見て、昼食を食べたのち、ベッドに寝転がりながら英単語帳をパラパラと読んでいる内に昼寝についた。その後は、英単語帳を見ることと、昼寝を交互に続けていた。
 
昼寝から起きてまず行うのは、腕を天井に向けること。白くでこぼこしたコンクリートか石膏の天井。今まで幾度となく見てきたが、久しぶりに何もしないと決めた日に見ると、それでも「綺麗だな」と思えてしまう。
 
昼食の後、英単語帳を見ている最中に、昼寝をしてもいいやと思ってからは空気清浄機もパソコンも止め、寝室で作動音を鳴らしている電化製品はなくなった。視覚や頭脳だけでなく、聴覚も使いすぎたのだ。思考をやめ、見ることをやめ、聞くことをやめる。そんな日が必要だったのだろう。

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不調の原因を考えていた。

2015.9.21

ここ最近、自分の不調の原因を考えていた。昨夜ようやくハッと気づいたのだが、「達成感」を感じていないのだ。
 
「いい動きができたときに感じる、寿命を対価として支払った感覚」も、達成感の一種だろう。人との会話でも、何かを作っていても、何をしていても、どこか脳みその奥底に響いてこないのは、達成感を感じていないことが原因なのではないだろうか。
 
自分の思う方向に持って行けたとしても感じていないのだから、果たして、どうすればいいのだろうか?
 
俺はどんな時に、達成感を感じていたのだろうか。作品をつくっているとき、完成した瞬間、搬入が終わった瞬間、感覚が広がった会話をしたとき、美味いメシ、美味い酒を嗜むことができたとき、運動の後などだ。つまり、全て主体となって動いている。まてよ? 「搬入が終わった瞬間」、、、、、、あ、展示をしばらくやっていなかった。

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風邪で気づく。

2015.9.20

本格的な風邪をひいた。先週末に「やばいかもな」と思っていたが、いつものように軽い薬で対処していたが、遂に木曜日に本格的な風邪となった。自分の風邪のこじらせ方は知っている。喉が痛くなり、頭がぼーっとするのだ。しかし、仕事は休まずに進めるので、強めの薬を飲みつつ乗り切ったのだった。
 
以前なら、こういうことがある度に、「体に良いものを食べよう」と思ったりもしたが、今はむしろ全く思わなくなってしまった。おそらく、下品になったのだろう。そう思う。人といても外食や出来合いのものを食べ、「金」を払って「食事」を得るようになった。
 
今となっては、学生時代にやっていた「もやし炒めで一週間過ごすこと」など想像だにできないが、やろうと思えば出来るのだろうし、何か、その頃の自分と感覚が近いような気がしている。あれはたしか、7〜8年前だったと思うが、そこから数年経った3〜4年前が一番、天に近かったような気がしている。品があったというか、希望があったというか。
 
その頃に戻ることはできないが、今がそうであるように、一度経験したことのある感覚なのだから、融合させて一歩踏みだすことはできる。

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亡くなった人たちのお蔭。

2015.9.19

良い意味でも悪い意味でも多方面でデザインが語られるようになったが、その中で「デザインとアートは違う」という話が出てくることがある。そして、その中で語られる印象というのは、「デザイン=依頼者がいるプロフェッショナルな仕事」「アート=自分の中で完結する仕事でも趣味でもいいこと」というような貴賎を見て取れる。
 
我々が、デザインができたり、アートができているのは、亡くなった大先輩たちのおかげであり、ルネサンス期のダ・ヴィンチ達が、手を動かしてものを作ることが卑しい仕事ではなく、貴い仕事であると認知させてくれたからだ。さらに、彼らが絵をかけたり、物をつくれたのは、石器時代に仄暗い洞窟で絵を描いたり、石器や土器に模様を描いてくれたからだ。もちろん、彼らだけでなく、和洋問わず、多くの先輩たちが動いてくれたおかげで、我々が仕事をできているのだ。
 
そのような中で、どうして、先のような言葉が吐けるのか疑問になるし、愚かだと思えてしまう。先人への感謝なしに、どうして仕事ができるのだろうか。

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いつもいてくれる。

2015.9.12

先日、山梨に行く予定が変わり、奥多摩へ。一人、河原でビールを呑みながら昼寝をしていると、雲が出ててきて涼しくなっていった。急遽出来た一人の時間。しかし、それがどれほど大切な余白の時間であり、体であるか。頭から誰それを一切いなくし、その代わりに山の、森の、川の、石の、空の、生命で満たされる。自分も含めたその他大勢の思惑は排除され、ただそれを全うする当たり前に何億年も繰り返されてきた生命で、自分の体が作りかえられていく。あの自然の全てが藝術の神サマだ。
 
「時間」「労力」「金銭」「感情」の4点からコストとメリットを意識的に考えるようになった後、自分にとって「感情」が最も大切であり、その中でも「寿命を対価として支払えた感覚」を持った動きができたときが至上の感情であるとわかった。
 
自分にとって何を神と呼ぶかは自由だし、なんと呼ぼうが自由だ。ただ、その対象が、常に自分を見ていて、天にいたり、後頭部のあたりに浮かんでいたり、自分の中にいて、言動を律するかだ。良い動きができたとき、そんな神に感謝したくなる。

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大先輩がまた一人。

2015.9.6

中平卓馬さんが亡くなってから数日が経った。大学一年の頃、森山さんの『新宿』を見て、「うわっ、スゲェ!」と感嘆し、書店で立ち読みしながら目と脳裏に焼き付けていた。すると自ずから「アレ・ブレ・ボケ」を知り、恥ずかしい話だが、その撮り方は森山さんのものだと勝手に思っていた。
 
中平さんを知ったのは、写真にハマっていく中で写真集を読み漁っていた頃だった。「アレ・ブレ・ボケ」を森山さんが始めだと勝手に思い込んでいた僕は、一人で恥ずかしくなっていたのを思い出した。
 
その後、日吉の専門学校に進むと、綱島に住んでいる学友から、「中平さんを見かけたよ!」という話を聞くたびに「マジかよ!」という一種のカミ様のような、金さん銀さん(僕が子供の頃にTVに出てた双子のおばぁちゃん)のような感覚だった。
 
そして、僕も見かけるようになって、体の老いを見るようになって、「生きて撮る」ことに生産性があるような、写真とともに生き続けることが美しいことだと感じるようになった。そういう人だった。
 
そんな大先輩がまた一人、ダ・ヴィンチやデュシャンのように、天から僕らを見守ってくれる人になった。見ててください大先輩、僕らも創り続けます。

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