Archive for 2015.5

自分にとって。

2015.5.31

「最も大事なこと」
 今日死ぬかもしれない人生の中で、笑って最期を迎えられること。
 
「そのためにしていること」
 全ての物事に、「時間」「労力」「金銭」「感情」の4点からコストとメリットを考え、物事に優先順位をつけること。
 
「4点で最も優先していること」
 感情。たとえ時間を割くことがなくなり、ラクに行え、金が手に入っても、感情が満たされなかったら、虚しさと怒りと悲しみで支配されてしまうから。
 
「感情の中で優先されること」
 良いものができた時、自分の寿命を対価として支払って良いものが出来たという感覚。
 
「その感情が生まれるのは何をしているとき?」
 作品を創っているとき。その作品が良い方向に向かうと予測出来たとき。その予測を上回った動きが出来たとき。その作品が完成した瞬間。

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The limb2

2015.5.31

数年前の作品「The limb」(以下、1)に手を加えて「The limb2」になった。「1」を制作していた頃は、今まで以上のスキルアップと今までと異なる手法を模索中であり、それが、僕たち藝術家が、多くを犠牲にし、肉体を費やしても作品を創りたくなってしまうことと重なってコンセプトとなった。
 
培ったスキルは「Grace」へと繋がり、「ギフト」に次いで人の目に触れることが多くなった。その後、「Nikon Df」を手に入れたことで、昔ながらの撮るという行為を思い出し、しばらくの間は初期作品のように写真を撮っていった。
 
創るという行為は、「あの世」に手が届きそうになる、そんな感覚を持ち、その感覚以上の快感を俺は知らない。背中にナイフを突きつけられるような感覚であり、それが偉人と呼ばれた過去の人達と出会わせ、教えをもらう。
 
山から落ちそうになったり、野犬に獲物として対峙したり、寒さで眠れない夜を過ごしたり、飢えて空を眺めたり、車に跳ねられたり––全て物心つく前の持病の感覚を取り戻すかのようだ。しかし、どれも、快感のみであり、「会話」がなかった。「あの世」との境目で先人と会い、教えをもらい、次につながっていく今を創っているこの感覚が、藝術特有なのだろう。それが、過去に完成された「1」を「2」へと昇華させたのだった。

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四次元ポケット

2015.5.24

二次元までの話から考えると、PC内の画像が実は記号の羅列であるように、「変換」されたものを「見た」と知覚している。印刷は、その記号を登録されているプログラムをアルゴリズムで紙に色をつけている。それ故に、ヒューリスティックによる人間の予想によって、中綴じものはズラすことが必要になっている。これが、二次元(縦・横)から三次元(縦・横・奥行き)への仕組み。
 
+1(時間)も同じか? 三次元までを記号化(CADは二次元)できたら、、、、? 我々は時間軸の中に生きている。縦・横・奥行き・時間で生きているものって、人間を含む生物か。爪を切るように、形は変えることが出来る。では、老いを変えることができたら、、、それは四次元の世界ということになるのか?
 
可逆的なことってなんだろうか? 関係を修復することも違うし、復縁も違う。修理も違う。コマンドZは? 何か足されている? 時間は足されている。そのために可逆的ではないとなるのであれば、「時間を戻す」ということになる。デジャブとは違って、タイムトラベルだ。ちょっと待て。pcの中のものに我々が触れないように、四次元のものになったら、三次元の我々のものには触れなくなるのか? もしも、四次元の人間がいるとしたら、そいつは、我々を見ているだけ? じゃあ、ポケットの中に手を入れて取り出す仕組みの四次元ポケットは出来ない。三次元の物体を二次元の方法でスキャンするように(CTスキャンなど)、四次元のものを三次元、ないしは二次元の方法でスキャンする必要が出てくる。仮に二次元の方法でスキャンしなければならない場合、次元を一つ飛ばすことになる。それはできるのか? それは出来ると仮定しちゃおう。まずは三次元のスキャン方法がわからない。光で取り出すってことか。光から物質にすることは可能なはずだ。
 
ということは、時間への干渉が出来たら、四次元ポケットはつくることができる。時間への干渉ってどうやるんだ? タイムトラベルってどうやるんだ? 触れないけれど、干渉できるものって、「幽霊」じゃん。ということは、幽霊って四次元になった人間ってことか!

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テクノロジーのなれないもの。

2015.5.23

数週間にわたって選んでいた機材も全て届き、一日掛かりで接続やら、ポジション決めやら、検証を続けている。
 
噂通り(?)、DELLのP2715モニターはアップルUSBキーボードを認識せず、macbook pro(MBP)につなげている。つまり不具合だ。そして、4Kモニターを買ってみたのに、結局WQHDの方が作業がしやすいことを知る。これは、店頭ではわからないことだったので、良い勉強になった。
 
それを差し引いても、8年前のimacから今年発売のMBPへのグレードアップは、体感すると驚きっぱなしだ。何よりもアプリの起動が速い! 普段、「ファストだけが価値じゃないよな」と言っているにも関わらず、テクノロジーに限って言えば、速いに越たことはないのだ。何とも現金な話だが(苦笑)。
 
しかし、速いことに驚きながらも、作業開始から数時間も経つ頃には、頭の速度が付いてこれなくなり、散歩に出かけた。あのまま続けていたらオーバーヒートは目に見えていただろう。
 
そして、いま目の前にあるMBPも、いつかは速度が遅いと感じるようになり、ヴィンテージ価値は生まれないのだ。それが、テクノロジー製品の運命でもある。愛着は湧くんだけどね。

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欲求

2015.5.17

家のPC環境をいい加減、新しくしようと思い、この数週間はPC周りを調べていた。8年程前のimacをよくぞここまで使い続けたと我ながら褒めたくなる。
 
調べていくと選択肢はかなり複雑になってきており、「macの魅力ってとりあえず買っておけば困らないっていうレベルじゃなかったっけ?」という疑問が浮かぶ。そして、macの次は接続用ディスプレイの選択があり、その後にサウンドシステムの選択肢が出てくる。一応、全て選択は終ったのだが、到着後の初期不良チェックがもう面倒臭いのだろう。
 
自分で得た知識とはいえ、何とも面倒臭い(2度目)能力を手にしてしまったと後悔する。知識がなければ、もっと単純に選べたのに……。
 
そんなことで、久し振りに思ったのは、社会のサービスはどこまで広がり続けるのだろう、ということだ。
 
即ち、人間の欲求はどこまで広がり続けるのだろうか。先日webニュースを読んでいると、どこかの記事で「1秒間に3人の人間が増えている」ようだ。実際の計算上では、5人が生まれて、2人が死んでいるらしい。死んだ人の人生も気になるが、一人一人に欲望があるとすれば、増えた分だけ欲望は広がり続けるということになる。
 
そう考えると、やはり、地球の寿命よりも、人間が全てを食いつぶす方が先のような気がしてならない。

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視える。

2015.5.10

根津美術館に初めて行った。光琳絵画を目的として行ったのだけれども、庭園も素晴らしかった。人の手によって作られているとはいえ、日本庭園らしい限りなく自然を残すことで、都会の中心にいながら森林浴を愉しめた。そして、光琳の「燕子花図屏風」の後に見る、見事に咲き誇る実際の燕子花に、先人の描くという欲求もわかる気がした。
 
帰ってきてからは、昨日の続きである「ダークナイト・ライジング」を観た。犠牲的精神の先には、幸という報われがあって欲しいものだ。
 
その後、制作を少しして今も思う。昼間に見えたじいさんの姿は、他には見えないのだろう。そこにある一生が普通にあり、その中で、人は藝術と向き合ってきた。それは光琳やダ・ヴィンチも同じで、門弟や息子に受け継がれながら、また1つ別の命を見つけてきたんだ。俺が何かを残しているのかはわからない。だが、これだけは言おう。俺は正直に作品に向かえているよな。それだけが、先人への手向けだ。

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再び。

2015.5.9

もう何度目か分からないけれど「ダークナイト」を観た。この映画を観るといつも同じことを考えるし、バットマン、ジョーカー、ハービー(トゥーフェイス)の三者全てに共感が出来る。信念を通すことも、信念が正義だろうと悪だろうとそれは狂気になるということも。
 
人を傷つけたら悪という考え方の下では、三者は全員が悪だろうが、信念を通すということは、すべからく正義にも悪にもなっているのだ。
 
そして、藝術において、ゲームとして愉しんでいる感覚も、少なからず、僕にもあるのだから、これは仕様が無いんだろう。

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この世には。

2015.5.9

何のために人間同士は争い続けるのだろうか、と疑問を持つこともあるが、現状を変えたことで変わる前の世界で甘い汁を吸っていた人たちが吸えなくなったら、それは側から見たら争いに見えるのだろう。
 
「社会を変える」というのは聞こえが良いけれど、クーデターと同じ。人殺しと同じで恨みや憎しみを向けられる。
 
そんなことを踏まえながら「変えよう」としていると、どうしても好戦的な姿勢になってしまうが、そんなことさえ吹っ飛ばしてくれるのが創作だ。
 
目の前の一枚に命を懸けていく感覚。「本当に必要なものなんて、人でも何でもなくて、作品なんだよな」と思い出しては、この世にはな〜んにもないことを再認する。

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悲しみの享受。

2015.5.6

夕暮れは寂しく、朝焼けは期待する。しかし、悲しみはどちらにもあり、夕暮れには終わってしまう悲しさ、朝焼けには始まってしまった悲しさがある。
 
制作も同じだ。始まってしまった悲しさと、終ってしまう悲しさをいつも内包している。その過程には高揚もあるが、どうして続けられて来れたかというと、終ってしまった時に感じる寿命を喪失していく感覚を愛でることが出来るからだろう。
 
人生で得られることなど、微々たるものではないだろうか。失い、悲しみをどれだけ享受できるのか、それとも、何も気付かない振りをして体制に合わせているのか。失ったものにどれだけ早くに気付き、思い出していくのかが、幸せへの切符のように思う。

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身体休め。

2015.5.5

久し振りの二日酔い。風呂に入って汗をかき、そよ風に当たりながら二度寝をしていると、お腹が減る。若冲の絵を見に行こうと思い外に出たが、坂を登っていると膝関節が痛くなっていることに気がつき、とりあえずは、ご飯を食べることとした。
 
胆汁を吐くほど胃の中が何も入っていない状態。そんな空っぽの状態で身体がまず望んだのは「肉」だった。空きっ腹に肉を詰め込んでいくと、身体中が熱を発していくのを感じる。いきなり点火していくかのようだ。
 
さすがにその状態では休む必要があると察知し、結局、TUTAYAで「ウォーキングデッド」を借りて、始めから見ている。先日の「寄生獣」といい、肉を食べるものを見ると、肉を食べたくなるものだな。

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