Archive for 2015.4

自由を思い出す。

2015.4.29

引き続き、家の掃除を続けている。棚の段が低くなったり、空いたスペースに物を下げるなどし、家の天井が高くなったかのようだ。
 
本当に、作品と機材と資料しか置いていない家になっている。
 
過去の人達の思い出もほとんどなくなっていき、部屋が記憶喪失をしていくかのような気分にさえなる。俺達が望んだことであるし、俺達の中に人はいない。
 
押入れに丁寧に入れていた「The 30years work.」を引っ張りだして見ると、身体中の創造性という細胞が起きてくる。あぁ、これだ。この感覚が俺を何度でも自由にさせてくれる。俺達は藝術の女神、ただ一人に魅入られたんだった。これは30歳の時の作品で、今の俺達がつくれば、また変わってくる。
 
何で絵を描いていたのか、何で写真を撮っていたのか、あぁそうだ。自由のためだ。

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初めてのこと。

2015.4.26

友達の誕生日会に行き、生まれて初めて餅をついた。つきたての餅は食べたことがあったが、自分がつくことは初めてだったので、気持ちが高揚した。どんなことでも「初めてのこと」というのは、「失敗したら嫌だな」という不安と、「知らないことを経験できる」わくわくが交わるだろう。だが、大抵のことは、不安よりもわくわくを優先させた方が、結果として良い方向に向かう。それは、遊びでもビジネスでも同じことだ。昨日は、完全に遊びであり、一種、童心にかえることができる楽しさがあった。

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悲しみではなく、安らぎのある日々。

2015.4.25

「あの時から単純に死にたがっていたんだ」ということに気がついた。木々があり、陽の差し込む大地の上に立ったあの時に、既に俺の人生は終っていたのだ。その命を他人のために使おうとしていたのだから、命に価値を見出そうとしていたことが間違いだったのだ。
 
命は自分だけのものであり、天に預けている限り、俺は自由だった。それが、社会という集合体に命を預けようとしていたのだから、甚だ無責任な話だったのだ。命は俺のもの。そして、終わるタイミングは天が教えていたのだった。
 
天の声を聞け、体に耳を澄ませろ。必要なことはいつも気付いていた。

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物の多さ。

2015.4.20

久し振りに本当の休みを1日だけ手に入れた。
 
外は生憎の雨であり、家でいらないものの処分を進めることにした。本や雑誌はスキャン業者に依頼したのだが、それでも、数十冊は手元に残ってしまうのだから人は物を持ち過ぎているということが身に滲みる。
 
新居も、作品が入るかどうかで選んでおり、なかなか決まらないのも、それが理由になってしまっている。つまり、物だ。
 
僕らはこいつとともに生き、そして死んでいくのだと、再認する。

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翻弄。

2015.4.13

先日、映画の話をしていたら、「やさしい」と言われて驚いた。何故、そのようなことを言われたのかもよく分からないが、誉められると同時に、「そんなことを考えているから、頭が疲れちゃうんですよ」とも怒られ、久し振りに笑うしかなかった。
 
考え過ぎとはよく人から言われるが、考えて動いてまた考えて動いて、それでもまだまやれるんじゃないか、という気持ちになってしまうのだ。
 
そんな時に、上記のような翻弄されるようなことを言われるのは不思議だが、リラックスできる時間だった。雑談の時間ぐらい、頭を空っぽにするのも良いかもしれない。

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「ゴーン・ガール」

2015.4.11

「ゴーン・ガール」を漸く観た。とても恐ろしい映画である一方、こういう女性に惹かれてしまうのも男の性でしょう。そして、妻の話す状況からどうやって最後の凶器を手に入れるのかを疑問に持った主人公に対し、妻が戻ってきたことに安堵しろよ、と話す警官(世論)という図式など、社会のあり方も提示している。
 
台詞の中でも随所に見えるが、「振る舞いによる世間一般の見方」を巧みに利用している。それは普段僕らの生活でも随所に出てくる場面であり、意図的にしろ、そうでなかったにしろ、人はそうして言動を選んでいる。
 
そして、意図的に使い分けることの出来る人間が、自分の望むものをある一定の社会の中で手に入れられることを表している。あくまでも、ある一定の社会の中でだが。それも示してしまうのが、デヴィット・フィンチャーの良い所だろう。彼女は、別の社会に入れば、無知で、力の無い、獲物になりえるのだ。
 
やはり、面白い映画だ。

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想う。

2015.4.4

ひとりの人を想い続ける。もう一生会えないからということも手伝ったとしても、この世に中に、そんな人がいても良いだろう。

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