Archive for 2015.2

平和の仕組み。

2015.2.21

ふとした時に、しばらく会っていない友人や昔付き合っていた恋人、死んでしまった人のことを「元気でやっているだろうか」と思うことがある。そこに「会いたい」という感情はなく、空を眺めたり、車や電車での移動中に雑踏に目をやったときに思うことが多い。
 
天国というのがあるのならば、死んでしまった人達が元気でやってくれていたら嬉しい。仮になくても、「そう思う自由」を手に入れていることを再認するのだ。
 
僕らは宗教や国家に縛られることがない希有な民族である。そのためかどうかはわからないが、アイロニカルにも社会やルールに縛られがちになる。もっと、僕らは自由になれるのだ。
 
宗教を持たないということは、盲信からの戦争をなくせるということ。国家を軽視するということは、トップの命令からの戦争をなくせるということ。個人で戦争は起こせない。個人同士が集まっても、少人数のコミュニティが出来るだけであり、それでも戦争は起こせない。
 
平和の仕組みをもって世界に向けて紹介できるのかもしれない。

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ようやく休めた。

2015.2.15

朝、起床し、喉の調子が芳しくないことに気がつき、予定していた新居探しを辞め、墓参りに行くことにした。道中、「自分は何のために生まれてきたのか」という疑問を持ち、その答えを探しているうちに眠ってしまった。
 
イメージやアイデアが天から降ってきたり、マグマのように湧き出たりすることがなくなっていくように、僕は年を重ねているのかもしれない。十分生き切ったという気持ちは当時から日増しに強くなる。
 
今年も近所の梅は咲き始め、もうすぐ春がやってくる。ネットニュースでは、「イスラム国」か「イスラム●●」か、名称が取り上げられているが、本当に恐ろしいことは、人が人を殺し、それが昔から今日に至るまで当り前に起きていることだ。搾取もそうだし、資本主義の格差も同じように、昔から尾を引き、全て同じこととして繋がっている。
 
墓参りからの帰宅の電車内、約一時間半を、うたた寝をして過ごした。川越市から始まり、武蔵小杉で目が覚めると、乗客の雰囲気や格好が違うことに気がつく。時間は流れ、僕がいてもいなくても日常はこうやって動いていくことに安堵した。
 
日吉に着く頃には、身体がいくばくか軽くなっていた。

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自然の声。

2015.2.14

怒濤の日々のほんの少しの束の間、海に行ってきた。午後3時半を回ろうとしている頃に到着すると、ウィンドサーフィンの団体らしきものが見えた。工事をしているせいか、とんびが少なく、その代わりに海に浮かぶ三角の旗の群れが、海を占拠しているようだった。
 
傾き始めた日が、海に煌めきをもたらし、一人で海に向かうサーファー達は、どこか勇敢に見えた。100枚ほどシャッターを切ってから腰を下ろし、しばらくの間、海の声を聞いていた。
 
自然の声は良い。雑念や思惑などなく、ただそうあるべき声だけを僕らに届けてくれる。優しさや悲しみ、怒りや慈しみ。そのどれもが当り前であるように、ストレートに自分の心を開くことで聞こえてくる声がそこにはある。

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暇つぶし。

2015.2.8

今、ちょっとだけ時間ができてしまい、手持ち無沙汰になっている自分を発見した。数年前の僕ならば、時間が出来たら惚けている術を持っていた。しかし、その方法を、今は忘れてしまい、空いた時間を何かして埋めようと焦ってしまったのだ。
 
もちろん、仕事などを進めようとすればできなくもない。しかし、それはさっきまでやっていたことで、このままやり続けたら一日中、普段と変わらないことになってしまう。
 
それは避けようと、どこかで抵抗をしてみようと試みた結果、逆に空いてしまった時間をどう埋めようかと心が急くことになってしまっていたのだ。そんなパラドックスに陥った自分を発見して、苦笑いがこぼれた。
 
義務にならずに、やれることって何だろうかと考えてみたら、感謝の言葉が思い浮かんだ。
 
父よ、家族を守ってくれて、ありがとう。
母よ、俺を生んでくれて、ありがとう。
ばあちゃん、俺を育ててくれて、ありがとう。
ねぇちゃん、俺達を支えてくれて、ありがとう。
兄貴、勤勉さを与えてくれて、ありがとう。
義兄さん、ねぇちゃんと結婚してくれて、ありがとう。
こなちゃん、生まれてきてくれて、ありがとう。
親戚よ、俺を心配してくれて、ありがとう。
友よ、俺と出会ってくれて、ありがとう。
仲間よ、一緒に仕事をしてくれて、ありがとう。
先生、知恵を与えてくれて、ありがとう。
師匠、俺を成長させてくれて、ありがとう。
藝術の神サマよ、俺に使命を与えてくれて、ありがとう。
地球よ、大地を守ってくれて、ありがとう。
こらからよ、生まれてこい、そして、ありがとう。
 
そんな暇つぶしを与えてくれて、時間よ、ありがとう。

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死んだつもり。

2015.2.8

このまま「生きる」ことを辞めたらどうなるのだろうか。「死」というのは、誰にもわからず、無かもしれないし、今僕の隣に死んだ人がいるのかもしれないし、世界を動かしているのかもしれない。
 
ただ、1つ言えるのは、生きている人は死んだ人に干渉されていないと思っているということだ。仕事は、ちょっとだけ止まるけれど、すぐに動き始めるし、悲しみも時間とともに薄れていく。
 
そう思えば、自分も含め世の中の大半のことは、どうでもいいことだったりする。そうであれば、毎日を「死んだつもり」で生きてみれば、障壁と勝手に思い込んでいたものをやすやすと突破できたりするものだ。全ては偏見だし、主観なのだから、何者に左右されるというのだろうか。

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普遍的宇宙。

2015.2.1

喫茶店で仕事のことを考えていると、丁度いい程度の雑音が耳に入ってくる。微かなBGMに、人々の会話が混ざる。グループでいるお客の方が、大抵は声が大きくなり、グループ内での立ち場を確かめるかのように、一人一人の話す量が異なっている。
 
「もしも、ここにいるお客さんの全てが機械に操られているとしたら……」や「この一人一人にそれぞれの人生があるんだよなぁ」など、ふとした時に想像の種になっている。
 
喫茶店が宇宙だとして、そこにいる人々が星に見立てたら、この喫茶店はなんて美しいんだろうかと思い、その星もいつかは爆発し、塵となり、また別の星の種になっていく、そんな集まりかもしれないのだ。
 
そうか、宇宙はどこにでもあるんだ。そんなことを理解したのだった。

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根を詰める。

2015.2.1

「何でそんな根を詰めるの?」と聞かれたとき、一番に思い浮かぶのは、「笑って死にたいから」だ。たくさんの人の死を見てきて、一番に思うのは、「人は死んだら何も出来ない」ということ。死んでしまった友人や家族、大切な人も出会えるのは、夢の中や頭の中でしかない。だからこそ、胡蝶の夢を信じられるのだが、それでも、こっちの世界では、死んだ人と会えないのがルールである。そして、死んでしまった人を見送る側が喜ぶのは、死んでしまった人の死に顔が幸せそうであるかどうかなのだ。そして、自分の中のルールとして、笑って死ねるかどうかが全ての基準になっていき、その自信を保つために、僕はやりたいことに根を詰めるのである。

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