Archive for 2014.6

トップページ更新

2014.6.29

先月に引き続き、トップページの写真を変更しました。
これからは、月イチで更新できたら嬉しいです。
 
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星と人間

2014.6.28

旅のはじまりというのは、どこからはじまるのだろうか。昔、喧噪から離れて自然の中へ野宿をしに行っていた頃のことを思い出したり、都会の真ん中のベンチで昼寝をしたりするときに訪れる心の状態は似ている。
 
ただ、一点異なるのは、「危険度」だ。自然の中にいたら、相手は自然であり、何がおこるか分からない不安は常に頭の片隅にあり、アンテナを張っている状態だ。それが、都会になると、暴漢の気配を察知するかどうかになってくる。相手は人間という自然になり、より身近になる。
 
そして、実際に目にする星々は、山の中の星の海とはかけ離れた一番星という島を探すことになる。人間も星も全てが平等に輝いている。遠くから見たら、輝きは違うのかもしれないが、輝いているということにおいては、皆、平等の力を持っているのだ。

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安定の伝え方

2014.6.23

瞑想で木陰を見た。自分たちは宇宙の星々のたった一つであって、総体ではない。そういうことを見ながら、考えていると、自分が何ものかである必要のなさを感じるのだ。
 
しかし、常にそうであると、離人が起きやすくなるのも仕方が無いことだ。何ものかであることを求められる社会の中にいては、何ものかである必要のなさで過ごすには、いささか不安定なことになる。
 
それとも、その気持ちのまま、安定を保つことができるのだろうか。いや、もしかしたら、大地のような気持ちになれれば、大地と一体のような心持ちになれば、安定はしていられるのかもしれない。
 
つまり、地球と一体ということか、、、ん? いつもと同じ結果じゃないか。やはり、人間は地球と一体だったと感じることが、安定に繋がるのかもしれない。そして、地球は広大な宇宙の中にいる。広大さは無限だけれども、地球の位置は、我々の位置は一定である。そう、はじめから一定なのだ。何を焦る必要があったのだろうか。
 
いや、焦ってなどいなかったな。
 
伝えることの出来る方法論を、手に入れる必要があるのだろう。大事なことは、自分の修行次第ということが多い。どの文化、どの宗教においてもそうである。師、その人自身も修行中の身であり、一生涯修行ということになる。いやはや、実際そうなのだが、ある一定レベルの悟りの状態は、もっと簡単に伝えることは出来ないだろうか、と思うのだ。あまりにも辛く、苦しい状態を過ぎて漸く辿り着くのが「始まり」では、その苦しみを他人に与えろというのか。それは、酷だろうよ、と思うのだ。
 
もうちょっとラクに伝えられる方法論はないのだろうか。

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drunk afternoon更新

2014.6.22

この度、諸事情により、drunkafternoonのURLを、EGUCHIMASAEU.com内に移転しました。
お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。
 
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夢の話

2014.6.21

夢の中で、涙が止まらなかった。薄陽の入る部屋の中で、押入の整理をしていると、古ぼけた黒い箱があった。鉄で出来ている箱なのか、木なのか、紙なのかは覚えていないが、開けてみると、隅の方に粒状化した鉄錆が積もっており、ところどころから、小物が見えた。
 
小物はとても懐かしい気分にさせ、ひとつひとつ見ていると、箱の中に絵はがきがあるのに気が付いた。
 
親父から僕に宛てての手紙だった。
 
そこに書かれている内容は覚えていないが、「航海」というワードがあったような気がしている。手紙を読み始めると、僕は大粒の涙が止まらなくなり、頭の中には海の上で航海しているイメージが出た後、家族全員が次々と思い出された。
 
今思い返してみると、「自由であれ」ということと「後悔をまだ残している」ということだが、フラットな気分でいられるのは、吹っ切れていることでもあるのだな。 

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少しの煩悩も空。

2014.6.15

さっき気づいたのだが、「空」にも種類もしくは階層があるのかもしれない。万物へ愛を抱ける状態が今まで出来ていた空だとして、さっき気づいたのは、万物への愛の度合いを若干少なくさせて、少しの煩悩を持っている状態だ。これを一言で表そうとすると、やはり「空」だった。
 
外で昼寝をしていると、隣にあった木を支える綱のようなものに小鳥が止まった。目線からほんの十数センチのところまで小鳥を近くで見たのは初めてのことだ。一枚一枚の羽が重なって模様ができ、これは擬態であるのかもしれない。今、こうして文字を打っていると、先ほどの小鳥だろうか、再び、小鳥が僕の目の前にきた。キーボードで文字を打っている、僕のすぐ目の前を、ピョンピョン跳ねながら横切っていく。
 
優しい気持ちになっているのだが、うっすらと攻撃性の感情が混ざっている状態だ。それにも関わらず、もしくはそんなことお構いなしに、小鳥は近くに来てくれる。この気持ちで仕事が出来たら、こんな気持ちで人と接することが出来たら、社会をもっと美しく見れるのだろうか。
 
手を繋いで歩くカップル、両親の前を走る子ども、寝ている人を注意して回る警備員、記念撮影をする家族連れーーたくさんの人達、それぞれの人生をそれぞれの感情とともに生きている。
 
小鳥がまた寄って来た。
 
この世界を生きる僕を含めた全ての人が、取るに足らないつまらない人かもしれない。しかし、誰もが気付くことが出来るし、変わることが出来る。真ん中に命が戻る瞬間、こんなとき、祈りのような温かな気持ちになっている。
 
「どうして争いが起きるのだろう」
 
そんな疑問も浮かぶが、恐れ、欲望、不信、常識の循環が、心に棘を生んでいるのだ。それらなくして仕事が進むかと言えば、そうではない。しかし、そうまですることの必要があるものだろうか、いや、人口が70億人、日本だけでも1億人を超え、全ての人がある一定程度の生活水準を満たす必要があるという考えの下では、4つの悪徳は不可欠の要素なのかもしれない。
 
ただ、それらを微量にすることは出来るのではないだろうか。少しの不安、少しの欲望、少しの不信、少しの常識によって、コミュニケーションは円滑に進みやすくなる。それらは礼節を覚えさせ、敬意に繋がり、自分を浄める行為へと導く。そういう力も持っているのだ。つまり、100%なくすことは、1%あることを恐れることと同じであり、「許し」がない状態である。
 
微量の煩悩——これを混ぜることも、「空」なのではないだろうか。

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優位とは。

2014.6.14

6/7の「意識のこと」を読んでいて、「一見すると別物のように見える私とアナタが、元を辿って行くと、1つの生命に行き着く。」という一文に、性交というのはよく出来ているなと思えた。一見すると別物のように見える、刀と鞘。凸と凹。デコとボコ。それら2つが合わさることで、1つになり(戻り)、別の生命体が宿り、外に出てくるのだから。
 
なんと言えば良いのだろうか。
 
ただ、ここにも何かしらの共通項が必要であり、別物の程度が大きすぎると、それは変態になり、異質となる。すなわち、「人間」という約束事が必要になってくる。
 
2種類の精子を掛け合わせて受精できるのかどうかを調べてみると、「出来ない」ようだった。受精というのは、自然のことなので、それが出来ないということは自然の摂理と反しているということだ。掛け合わせるということ自体が、反しているのだろう。凸と凹であることが自然であって、凸と凸と凹では、収まる場所がなくなるというものだ。
 
つまり、収まるところがないということは、進化も退化もなく、ただ絶滅していくということである。逆説的に話すと、進化も退化もしていくことは自然的であり、絶滅していくことは自然的ではないということになる。しかし、自然の摂理に適合したことが、全てにおいて優位ということではない。

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自然以外のものの必要性を問う

2014.6.8

自然以外のものに感動ができなくなっている。服は最低限のものを失礼のないように使い分ける程度、料理も焼くか生かで十分であり、作品に至っては何もしない方が良い。それ故、大きなものへの圧倒的スケール感の方が自然らしい——とここで、「ミメーシス」かと気付く。要は、自然の模倣であり、より自然的であり、自然に行き届かない仮象性によって感動が生まれる。ここで発生する感動が、自然を観た時に感じるのと同種のものなのかどうかは定かではないが、「感動する」という心的作用としては同じだと言える。
 
先ほど、ポートフォリオの整理をしているときに、「ギフトシリーズ」以降の、プリント+ペイントの一連の作品を眺めていた。その時に気付いたのだが、当時、いや今でもそうだと思うのだが、これを批評するための評価軸は、今、どこにも存在していない。以前、飯沢さんとの対談で、学生時代の講評会でこれ(ギフトシリーズ)を見せたときに、全員が何も話せなかったのは、これを批評するための軸を持っていなかったから、というようなことをおっしゃっていたのを思い出した。
 
そう、僕がやっていることに、批評するための軸は、誰も持っていないのだ。僕も含めて、どんな人でも何かを批評する際、自身が培ってきたものでしか話すことは出来ない。境界線を設けて細分化された世界で格差を生み出し、職業を生み出してきた世界において、「境界線をなくす」という思考の上でつくられたものは、ミクスチャーと言うしかないのだった。
 
しかし、どういうことだろう、これらの作品を見て「良い」と感じても、突き抜けるような感動が生まれないのは。それは、どんなに感動してきた他者の作品を見ても同様の状態になっている。メシを食い、セックスをしても、自然の中で昼寝をしているときのような、至極の感動体験がなくなっている。
 
腕を切る者、いたるところに穴を開ける者の気持ちもわからないではない。唯一の自然である肉体を改変し、そこに伴う痛みは自然である。至極の痛みという感動体験を、その者達は抱きたいのだ。薬物を使い、シャーマンとなり、自分以外の超人間的なカミと一体になろうとする行為も、それに近いだろう。
 
外で昼寝をしている時、空はどこまでも続き、地球を超えて、宇宙と1つになっている。宇宙と1つになった中に、自分が溶けている。浮いているのだ。いや、沈んでいるのかもしれない。どちらもわからない状態で、真ん中に自分が、溶けているのだ。溢れてくる涙は、地球の海になり、吐き出す空気は、地球の大気となる。そうして、地球は既に私だったのだ。これ以上の感動体験を、私は誰と何処で共有できるというのだろうか。

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意識のこと

2014.6.7

自分の周りにある空気を信じられるとき、思いもよらない力を発揮できたりする。一方、全てが敵のように感じられるとき、ドツボにはまることがある。逆説的なのかもしれず、120%の力を発揮できているときに、信じることができているのか、ドツボにはまっているからこそ、全てが敵のように感じてしまうのか。けれども、意識することで、自分の向かっていく方向、陥っていく方向が決まってくることがあるだろう。なので、僕はなるべく口角を上げるようにしているし、笑うことを多めにしている。そして、辛そうな話のときには、辛そうな表情をしているはずだ。つまり、感情に正直にいながら、ポジティブに終わるようにしたいのだ。
 
先日、ストレッチをしてから瞑想をしているときに、「人間はどのように構成されているのか」という疑問がよぎった。「胡蝶の夢」かもしれないし、映画「マトリックス」のように誰かに現実の夢を見させられているのかもしれない。しかし、そうだとしても、人間は構成されているのだ。それは意識なのか——意識を生み出すのが脳ならば、脳で出来ていると言えばいいのか。漫画やアニメでは、脳だけで、人間を操作するような話も見かけるが、脳を見ただけで「人間」だとは感じないだろう。
 
つまり、「脳」という名前の物質としか感じなかったり、「これが人間です」と脳を見せられても腑に落ちないはずである。そうかといっても、死体を見せられても「人間」と思うというよりかは、「死んだ人間の体」すなわち「死体」と思うはずである。つまり、人間とは、「人間らしいと感じる体が意識を持っていると思われる振る舞いをしている物体」であり、言葉である以上、「人間」という単語の意味合いはこれから増えたり減ったりする。
 
このことも、先述のことも、全て「意識」が中核に置かれている。
 
「意識とは何だろう?」と、子どもながらに疑問を持ったこともあった。意識がどこにあるのか、と考えてみると、頭の中をまずは思い浮かぶ。しかし、意識を取り巻く現実世界は外にあり、意識して初めて、自分にとって存在していることがわかる。つまり、意識から現実を認識するというのは、拡張的な図式になるのだろう。一見すると別物のように見えるが、どこかで必ず繋がっている。それは、進化の歴史と似ている。DNAを受け継ぎ、一見すると別物のように見える私とアナタが、元を辿って行くと、1つの生命に行き着く。それは誰でも同じであり、1つのものが拡張しながら、永遠に続いているということだ。
 
そう思うと、何かが独立して存在しているということはないし、独りぼっちというのはありえないということになる。案外、寂しさなんてものは、個人の幻想でしかないのかもしれない。

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わかっちゃいるけれど。

2014.6.1

体を預けるというのは、不思議なことだと思う。心身が大事なものだと、たくさんの人が感じていることだろう。それを、「自分以外の誰か」に預けて、メンテナンスを施してもらうのだから、よっぽどの信用が働いている。施術中、僕は赤子のように、施術者に体を預けている。仕事をする体が良い方向に向かうように。
 
それにしても、腰関節が固くなることで、首周りのコリに繋がるなんて。わかっているけれど、なかなかできない、ストレッチ。

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