Archive for 2014.5

取り戻せ

2014.5.25

瞑想をしていても、雑念で遮断されてしまう。最近、よく行っている場所での昼寝も、雑念によるノイズが邪魔だった。

そもそも、何が雑念となって邪魔をしているのだろうか。仕事のスケジュール、明日のこと、、、つまり、今この時を生きていないから、ノイズが発生しているのだ。

今この時であることを取り戻せ。空が空であるように、水が水であるように、俺の体は俺の体、俺の意識は俺の意識、ただそれだけであるように、今この時に自分を置くんだ。

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選択の理由

2014.5.25

最近、忙しさから離れると静かな感傷と出逢う。最後は一人だということ。自分の遺伝子を受け継いだ子が、自分と同じように、病気になるのではないだろうかという恐れが、一人を選ばせる。
 
情の力を見くびっているわけではない。しかし、自分の血を受け継いだ子ではなく、養子を選ばせる。お金の面で不自由をしている子どもたちが多いという格好の理由があることも拍車をかける。
 
それでも、情の力の偉大さを知っているので、最終的には一人を選ぶ。
 
久しぶりに家でビールを飲もうと、コンビニに行く。
 
ビールの棚には、新発売のものが取りやすい位置に置かれているが、一瞬迷って、親父が飲んでいたビールを買う。いつも通りの選択だ。いつも迷っては、やっぱり選んでしまう。利き酒ができるほど舌は肥えていない。つまり、パッケージで選んでいるということだ。
 
結局は、情が勝ってしまうことの表れである。
 
恐ろしいことに、「もしも」のことが起きた後、自分がもっと強い作品をつくれることもわかっているのだ。どこかで、それを望んでいるような気さえしている。今までの人生、先に対価を払ってから、力を手に入れてきた。その仕組みが、これからの人生も続くような気がしているのだ。
  
それでも、自分の命を対価として払うのは構わないが、他人を対価として使って、力を得ることは、俺の倫理観では難しいことになる。そして、一人を選ぶことが続いている。
 
考え過ぎかもしれないが、理論ではなくて、情の話だ。

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変わったような変わっていないこと

2014.5.24

「ガンダムUC」を観に行った。ガンダム自体は格好良く、涙腺が緩むところもあるが、台詞に頻繁に出てくる「可能性」というワードが気になった。
 
このワードが気になるということが、自分が老けたということを物語っているのだろう。
 
ただ「可能性」を信じるだけで話を終らせるのではなく、「可能性を実現するための具体策」を挙げることがないと、どこか眉唾に聞いてしまう姿勢が出てきている。しかし、だからといって、「可能性」という理想論を信じていないのではなく、むしろ、根幹は理想論といわれるような可能性を信じているのだ。可能性を信じているからこそ、「動く必要性」が切迫してくる。
 
そんなことを考えていたら、「がむしゃら」を「集中力」と言うようなものだということに、気が付いた。
 
要は、変わっていないってことだ。
 
変わったのは、「お金を出させる方法の引き出し」、「人に動いてもらう引き出し」が増えて、徐々に悪賢さが増していることだろう。

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ひとつの疑問、たくさんの疑問

2014.5.23

生きるとは何だろうか? とりあえずは、価値あることとして一般的には思われている。そして、倫理的な価値を満たすように位置付けられている。

それでも、生きるとは何だろうか? 科学的根拠を並べて機械と区別されてもいる。家畜や装飾品のために殺される動物もいる。

人間とその他で、生きるというのは違うものだろうか? 死んだとされる人間とも、会うことがある。会ったことがない、遠い時代の人間とも会うことができる。

多くの人がこの問いに挑み、それぞれの答えを僕らは読むことになった。しかし、それは単に、自分以外の誰かが主張している文句に過ぎない。この問いこそが、自分だけの答えを持たなきゃならない問いなのだろう。

生きるとは何だろうか? 僕らが産まれ、育ち、それ即ち「生きる」と呼ばれているものだ。その先に、死を通過し、またその先はどうなっているのか、わからない。

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帰るところ

2014.5.18

先週あたりから、静かな苛立ちが途切れることなく続いている。昔、本で「男性にも生理のような不調がある」ということを読んだことがあるが、そんな感じだ。
 
このままだとやばい、と思いつつ歩を進めた先は、横浜と新高島の間にあるベンチだった。そこは、以前にも話したように、都心の中にある気持ちの良い「抜け」の場所だ。
 
コンビニで買ったミックスジュースを飲みながら、ベンチに寝っ転がり、手を腹に当てて目を閉じる。
 
陽の光が肌を温め、風が心についた垢を飛ばしてくれる。あぁ、俺が生命を取り戻していくのがわかる。こんなにも当り前なことを、都会で生活していると忘れていくのだな。自分を取り戻すのは、自分しかいない。

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アクシデント

2014.5.17

現在、マンションの僕らの住んでいる棟のみ断水中。洗濯は途中で止まり、顔は洗っていない。掃除をしている時に止まったので、部屋は綺麗なのに、手は汚れている(はずだ)。しかし、体の汚れ(と思われているもの)を落とすことが、それほど必要なのかという気さえしてくる。
 
これが数日間続けば、風呂の有り難さを感じる。それは旅でとてもよく知ったし、入院の経験からも人間の生活で風呂が必須なのはわかっている。
 
けれども、たった半日〜一日と思えば、そこまで必要ではないだろうと思えてくるのだ。
 
それよりも、断水後に外に出て、偶然出くわした同じ棟の住人達と抱く「不思議な連帯感」を経験することの方が、人間への希望を見出せるのだった。

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残す側

2014.5.11

命が生まれて、生き、死ぬ。偶然が重なって生まれては生きて、偶然に死ぬ。そう思えば、自分も人と一緒に生きることに踏み切れるかといえばそうではなく、たとえ死んだとしても、人の想いというのは重くなって残ってしまう。僕らがそうであったように——。
 
単純な話、残された人間は、その想いを加速させて膨らましてしまうのだ。残す側になってしまう可能性が高いのなら、種は早めに積んでおきたくなる。感情に惑わされるなと言い聞かす。

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GWに神社を勧められる

2014.5.5

知人に勧められて、日枝神社に行ってきた。風神雷神や仁王像の替わりに、猿が立っていた。どうやら「魔が去る」という意味で「神猿(まさる)」と呼ぶらしい。「遂に俺(マサル)も神になったか」と思ったが、相手は猿だ。人間じゃない。
 
しかし、超人といえば、既に「人間という領域を超えている」という意味もあるのだから、超人を目指すということは、即ち、人間を捨てるということでもある。
 
そんな風にして、ほくそ笑みながら境内を散策していたのだが、とにもかくにも気持ちの良い抜け感がある。高層ビルに囲まれているにもかかわらず、境内に何もかからないようにしているつくりのお蔭か、道中のビル群とのギャップが「気持ちの良さ」に拍車をかける。
 
パワースポットということで勧められ、何のパワーなのかわからないが、とりあえず、気持ちの良い場所だった。
 
 
※トップページの写真を全部とりかえました。

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昨夜

2014.5.5

半年振りの友人と、酒を呑んだ。その後、一時間ほどカラオケに行ったのだが、これも数年振りのカラオケだった。モニターはブラウン管から薄型液晶に変わっており、上に乗っかってダイブすることも出来ない時代の変化に、微かな怒りを覚えた。体型こそ変わらずとも、歌うことを忘れている喉と腹は3曲目くらいから声が出なくなり、気持ちの方が逸(はや)っていた。しかしだ、それでも歌い続ける姿を見ていた友人が、「歌っている姿は大学の頃と変わらないな」と言ってくれた。
 
「ワールズエンド」という、酔っ払いが世界を救う映画を直前に見ていたので、「学生時代に成し遂げられなかったバカなことを、中年になって再び挑戦する」という内容が重なった。
 
あの頃成し遂げられなかったこと——考えてみても、思いつかないのは、全速力で生きてきた証拠だろうか。それとも、ただ単に、忘れているだけだろうか。
 
僕はたくさんのことを忘れる。正確には、前意識の引き出しにしまっておくのだ。なので、話途中で「あぁ!」と思い出す。それはたしかに多い。全力においては、大抵のことは全力で臨むようにしているが、歌うことも全力でやってしまうということだ。昨夜気が付いたのは、歌うことばっかりは、後先考えることができないまま、今に至るようだ。あれしか歌っていないのに、今日は喉がガラガラだ。

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真実

2014.5.3

マッサージを受けながら、「今日が最後の日だったら何をするだろう」と考えていた。「マッサージを受けている」のだから、「何を」するでもなかろう、とも思ったが、能動的に体を動かすこととして考えるようにしてみた。
 
すると、「写真を撮る」だった。
 
作品のことも、職業のことも全てを放り出して、写真を撮りたいと思った。
 
被写体もカメラも、何でもいいのだ。
 
それが、真実だ。

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