Archive for 2013.3

制限時間が近い

2013.3.26

時間が、向こうからやってきているのが分かる。最近は日向ぼっこをしている時間が増えていたのだが、「余暇を楽しめ」か「何をするか」ということだったのだろう。桜もあはれと感じるようになった。悲しみが温かく広がっていく。何も持たずに、その時を向かえたいようだ。それとも、守りたい人を守ることだけになるのだろうか。はたまた、いまだ我執や欲動が生まれるのだろうか。もしくは、全部を混ぜこぜにできるのだろうか。

2013.3.25

友人が大事なんです。家族も子どもも。欲張りと言われようとも、人間の幸せを理解してしまったときに、もう、それぐらいだということ。そして、憎しみの日よりも喜びで。

現実だろうが、夢だろうが制作

2013.3.24

目覚めてから、お布団の中でもぞもぞとしていたら、樹々が擦れる音とさざ波の音が同じだということに気が付いた。その後、心拍の音、呼吸の音との違いが心地良く、いつの間にか、ソファで眠っていた女性を(起こさないように)撮影していた。結局起こしちゃったんだけど、「ごめんね」と微笑んだら微笑み返してくれて、撮影を察してか眠ってくれた。レンジファインダーいいね、と思いながら、起こしちゃうなんて写真家失格だなと反省。
 
途中から夢の話だが、どこからが夢だったのか覚えていない。こういう現実感の持ち方は好きだ。集中して制作しているときと似ている。

偏見を抱え込めば、私欲になる。

2013.3.23

当り前だが、日本にいると良い部分と悪い部分がある。特に職業では悪い部分の特徴の方が目立つような気がしている。出身畑や年数を気にしすぎるところ、職業名を1つに絞ろうとするところ、引用元を明かさないところ(手柄を自分のものにしようとするところ)、批判をしておけば良さそうに思っているところなど、先進国として特殊すぎる国ではないだろうか。
 
海外贔屓になるところも良くないと思うが、上記のことはとても馬鹿らしいと思ってしまう。簡易的に人物の歴史を調べるとき、ウィキペディアを用いるが、職業や背景を調べるときには英語版の方を閲覧するようにしている。英語版の方が、職業名や活動領域、背景が詳しく書かれているからだ。
 
また、どのマスメディアも同じ情報しか提供できていないのに、「一部情報機関によると……」なんて引用符で済ましてしまうなんてありえない。そんなのだから、情報を伝えるだけで簡単に手のひら返しができるのだ。
 
加えて、(大別すると)僕は美術→音楽→心理学→写真→デザインの順で歳を重ねてきてよかった。時には専門に特化して、時には複合的に混ざって活動することによって、たくさんの人達と会話をすることが出来た。
 
それ故、人と会話をする時に、近々(きんきん)の事柄から相手の性格や背景へと潜っていくことで、自分の偏見がポロポロと剥がれていく。しかし、性格や背景、職能を排除し、表面的な部分にばかり目をやれば「潜っていく作業」は出来ない。そうして、否定語ばかりを用いてしまう国民になってしまうのだ。
 
年齢や経験を重ねることが悪いと言っているのではない。そうでしか得られないものもある。しかし、そこばかりなっていながら、資本主義に陥っているのは辻褄が合っていないのだ。資本主義の基盤は「安いものが良い」と「私の幸せ」だ。「質」と「皆の幸せ(共益関係、公益)」ではない。年齢や経験で得られるのは「質」だが、「安いものが良い」のなら、動けない奴らはいらない。そんな奴らを大事にせよと言われても、金を払って生活を支えてやろうとも思わないだろう。
 
よく、年金問題や子育て問題、TPPの不安で自分のことばかりが挙がるのも、「私の幸せ」の偏見しかもっていないからだ。「育てる意識」も「支える意識」も持っていない。老若男女問わず、精神が幼いこと——それが、日本の国益を下げてきた原因ではないだろうか。そして、少なからず僕の友人にも、共益関係に配慮しない人達がいるのは残念なことだ。そう、とても残念だ。

桜の話のつづき

2013.3.22

先日の「桜の話」に関係したことを。以前、「桜は満開の時よりも、満開手前の方が想像出来て美しさを体感できる」と話したけれど、これって制作過程で言うと、完成の手前や、完成といったところだと思った。
 
制作をしていると色々なタイプの人達と出会うけれど、「完成の一歩手前で完成させる」というのは面白いなぁと思いつつも、僕はしない。それよりも、「余白や動きで抜く」ことに重きを置いている。つまりは、完成させるということです。美術業でも企業系でも、余白や最小色数、最小グリッド値は大切になる。
 
今や新定番となっているフラットデザインも、日本では10年ほど前から、世界的には5年ほど前から、大衆的なものでも見るようになり、3年ほど前に流行った。流行で終らなかったのは、それまで競合を出し抜く派手さで、視聴者の目を騙そうとしてきた流れよりも、フラットにすることによって、タイポグラフィへの意識や色や形の相関など、基礎力の底上げから真の美しさを目指すように変わってきたからだ。
 
それは、伝統工芸の紹介、ライフスタイル提案型、幸福感を売りにする書物など、視聴者の意識が中身に変化していることからも同様のことが言える。
 
閑話休題。満開手前=完成手前、満開=完成という図式を乱暴につくってしまったが、何故、桜の場合だと満開手前がいいのに、制作では満開(完成)に至らせるのか。それは、桜の場合は想像ができるのだ。つまり、満開の桜がどういうものか、それぞれ知っており、人は自分の最も美しいと感じる桜を想像することが出来る。
 
しかし、制作になってくると、視聴者は想像することが出来ないのだ。当り前のことであり、制作されたものを視聴者は体験したこともなく、不確定なものに不安を抱くのは人間の性である。故に完成させることで、自分も含めた視聴者の食指を動かす事が出来るのである。そして、完成させたものが派手さで騙す方向から、内面を底上げしたことで生まれる感動が、これからは求められるだろうし、僕は好きだ。