Archive for 2013.1

白盤更新

2013.1.26

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神さまに手を引っ張られる

2013.1.25

神さまっているのかもしれない——そう、思うときがある。「お前らしくもない」と言われそうだが、僕の言っているのは「藝術の神さま」限定で、他の方々は知らない。
 
僕は「死」というものに大変興味があり、制作が終わって手を置いたときは「もう、やることは一つしかないな」という静かな気持ちで満たされている。そこで、その場所に向かう準備を進めていると、決まって「制作関係」の話が舞い込み、「つくること」に僕は連れ戻される。
 
このように連れ戻されるとき、藝術の神さまに手を引っ張られているような心地になるのだ。進む道を選ぶのは自分だが、つくることは一番、僕の食指が向かうことなので、結果、生きる状態に連れ戻される。そんな依頼仕事を進めているうちに、作品も進み、現在に至っている。

ひと

2013.1.24

打ち合わせ、食事会、飲み会……いったい一年でどれほどの人達と会い、どれほどの業種と関わっているんだろうかと考えるときがある。公共性だったり商業性が高いオープンスペース、マス制作というよりかは、ハレをケにしたり、ケの中にハレの要素を入れていくような、パーソナル性の高いクローズド環境と専ら関わっているので守秘は高く、宣伝なんかもする必要がないのだが、それでも人と出会い、様々なことが進んでいく。
 
雰囲気だけで進めようとすることも出来ないので、よくあるような些細な綻びを流したり、見て見ぬふりということも出来ない。緻密に構築していった結果、揺るぐことのない雰囲気を帯びさせることが出来る。そういった現場で出会う人達の方が、僕の知らない世界や作法を教えてくれ、緊張感が心地良くなる。
 
たとえ知ったとしても、取捨選択し、芳醇さを出していくように育てるのは自分自身であり、それが特有の雰囲気となり、相手を落胆させるか報われたと思わせることができるのか、そういう楽しみはある。それは卑しさではなく、大人のゲームだ。経験をくれた方への恩に報いる、先に進むキャッチボール——仕事をする大人の楽しみだ。

体の声

2013.1.23


 
2013.01.15
 
走っている時につま先が痛くなったり、いつも同じところにマメやタコが出来るので、シューズ選びがてら、足を計測しに行った。すると、何となく予想はしていたが、僕の足が思っていた以上に小さく(良く言うとスリム)、ランニングシューズにおける選択肢が極端に少ないことがわかった。そして、普段履く靴も大体ヨーロッパ系のものがすんなり履けるというのも、納得できた。寒くなってきたので、シャツを買おうにも既製服は胴長のものが多く、サイズが合えば買える――そんな風にしか身に付ける物が買えないのもどうかと思うが……。
 
閑話休題。計測の後、カウンセリングを受けながら靴を物色している際に、現在履いている靴が、15、6歳の頃から履いているアディダス カントリーだと聞いたときの店員さんの呆れ顔――「いや、そんな目で見なくとも……」と思ったのも束の間、履かせてもらったシューズで試しに店内を走ってみると、めちゃくちゃ走りやすいじゃねーか!? これが自分の足か!? 店内で叫ぶ俺、振り向く他の客やら店員さん……再び、苦笑いの(対応してくれている)店員さん。いや~、そりゃ呆れますね、ごめんよ。
 
仕事において僕は自前のカメラをもっていなく、現場にあるものを借りたりするので、こちらが機材の癖をつかんでいくことが多いのだが、極稀に、道具の方から僕の体にピッタリ吸い付くような、ハマる感覚を抱くときがある。この前のランニングシューズはまさにそんな感じだった。それもこれも、足の形を調べてカウンセリングをして、僕に合ったシューズを選んでくれた店員さんのお蔭だ。ありがとう!
 

 
2013.01.22
 
コンプレッションインナーが届いて試してみたいけれど、本日は雨です。ようやく体の調子も戻ってきて、そろそろ負荷をかけてもいいと思うんだけど、生憎の雨天です。足を計測して、カウンセリングまでして手に入れたシューズも試せていないが、こういうのは少々懐かしい感じがする。
 
幼い時は病弱で、病院の窓から外を見ることも度々あった。たった一枚の窓を隔てて広がっている景色は、僕にとって未知の物事が溢れている世界であり、その世界に足を一歩踏み出すことを想像しては心を躍らせていた。
 
それを悲しい思い出とするかは、人によりけりだろうが、僕にとってはメリットの方が多かった気がしている。
 
狭い空間でやりくりをしなければならないので、先読みして動くことがしやすく、結果として「考えながら動く」性質が培った。それは、想像力やイマジネーションとも呼ばれるが、ビジュアルを作る力も、仕事を進めていく力も、これなしでは成立しない。
 
ただ、デメリットもあって、「一人で生きていけるでしょ?」と言われてしまうことだ。言われると「まぁ、そうだな」と、何も反論できないのも悪いんだけどね。そして、こう話していると「デメリットとも思っていないでしょ?」と、また突っ込まれる……いや、本当にそうでございます……。
 

 
2013.01.24
 
長々と書かれていますが、漸く体から「大丈夫だ」という声を聞きまして、約2週間振りに筋トレ+ランニングをしました。下半身の装備は先述の通り、万全なわけですが、上半身はハードシェルを着ていたら汗がダラダラ……体を落ち着かせていた直後なので、軽めに設定していたとはいえ、汗をかいていると「生きてるぞ!」という細胞の声が響き、そのまま僕の口は笑いで溢れ、叫ぶ、叫ぶ、笑う。
 
健康のためや体のためというよりかは、「体が求めていることに素直になる」結果、運動をしている。そのため、誰かに勧めることはありませんが、やっぱりね、体を動かしていると頭の中がクリアーになっていく。

「背伸び」と「ありのまま」

2013.1.22

人は背伸びをする。「高い」ということが一つの価値として見出されている間は、背伸びをして、自分を良く見せようとする。そのことで向上心が高まったり、実際に力がついたりして、いつの間にか高い壁も背伸びをせずに超えられるようになる。
 
しかし度が過ぎると、梯子を掛けて高くしようとしてしまうことがある。物質的に、高いところに手が届くようにするためには必須のことだが、精神的な話の場合では、それは「嘘」になる。物質的な梯子なら「これ以上高いと落ちて大変なことになるぞ」と直感的に気付くが、精神的な梯子に登ってしまうとそのことに気付かなくなるので、そこから生まれるものは形骸化している。
 
今では聞かれなくなった「分をわきまえる」、「身の程を知る」というのは、そういった若さ故の気付かないで「嘘」になってしまうことを、軌道修正するものだったように思われる。
 
現代で、そのような箴言や警鐘を聞かなくなり、たとえ言われたとしても似つかわしく思えないのは、日本が高さだけを求めて、人よりも高いことを美徳としてきた結果なんだろうね。
 
一方、若い人達から聞かれる「ありのまま」というのも、どうやら高いことを求め過ぎた反動のようにも見える。ありのままで良いと言ったり、相手に求めたりするのは、「自分は成長しなくても構わないけれど、君達はそんな自分を受け入れてね」ということであり、とても利己的な主張だ。また、全ては変わり続けるのが理な故、とても不自然なことでもある。
 
どちらも、「無理のないこと」や「適切なかたち」ということからは程遠い。健全であるためには、ある程度の負荷は必要不可欠であるし、その負荷から有用な道筋(答え)に進むためには、無理なく負荷を逃がすことが適切な方法だ。つまり、中庸に持っていく力が必要になるのだが、反動ばかりのこの世界、人々に対して、残り時間でどう相手をしていこうか。