Archive for 2012.3

気付きの幸せ

2012.3.20

残りの作業を数えていたら、その作業のほとんどが済んでいたことに気付いた。先日、白梅が満開であったことに気付いていたのだが、今朝は紅梅も咲いていたことに気付いた。歯を優しく磨くことが出来なかったが、細密用の筆を扱う感じだと気付いた。日々は無常に過ぎていき、善も悪も愛も憎しみもあるのが当り前だが、些細でも気付きの瞬間は幸せな感じがするものだ。

不信のコスト

2012.3.18

出掛ける際、とうとう財布と携帯電話のみを持つだけになり、手ぶら生活に拍車がかかっているが、終いには「何も持たない」で出掛けたいものだ。土の上ならそのままで絵が描ける、石があればコンクリートでも絵が描ける。何も持たずとも頭の中で絵が生まれている。十分過ぎる能力だ。防犯の面で気をつけよと言われるが、たしか養老孟司さんの著書で「不信はコストを生む」と書かれていたと思うが、まさにそうだと考えられる。打ち合わせ中にトイレに席を立つ時、テーブルに置いた財布と携帯電話をそのままにして立った方が、無駄な動きがなくトイレに行ける。善悪は人の中にあり、法律で裁けるものではない。ただ、悪事を働けば、その人の中には必ず引け目が生じる。もしも、その人にとって悪事が善事であるならば、どうしようもない。認めるか、復讐者になるかのどちらかだ。

寒さと雨

2012.3.17

体が重い。精神的な疲れが体を重くしているのか、単に肉体を使い過ぎているのか…ただ、今はまだやることがある。むしろ、こういう時こそのびやかになれたりするものだ。

海を切る作品

2012.3.15

最近、英語だらけである。英語を聴き、英語を読んでいる。その逆で、英語圏企業の日本語訳を見ていると、笑っちゃうような文章と出会うことができるが、それでも日本人には伝わる。そうみると、壊滅的な英訳でも大丈夫だと勇気が湧いてくる。しかし、話した方がはやい。
 
風になりたい。空気になりたい。水になりたい。体は体の形をし、足は地についている。海。海の作品をつくる。それが答えだ。

感じ取る

2012.3.10

住居の外壁工事によって、ベランダ越しに作業員が行き来している。そういえば、工事のしおりに「レースのカーテンなどのご使用を勧めます」と書かれていたが、何を隠せばいいのだろうかと疑問に思ってしまったので、普段通りにカーテンを開けて覗けるようにしている。だからといって、作業員は覗いているはずもないだろうが、目が合ったら目挨拶をするだろう。
 
そもそも、日本の住居は隠しすぎではないだろうか? 正確にいえば、遮るものが多過ぎるのだ。狭い国土に狭い住居、それにもかかわらず壁をいくつも設けて部屋を小分けにする。その壁の先は、誰が(何が)どうなっているのかはわからない。古来、襖や屏風などによって遮ることをしていたが、人の気配はあった(はずだ)。それは覗かないことの礼儀と貴さ、そして人がいることの安心感があったはずだが、分厚く硬い壁で閉められてしまえば、その先の気配を感じることは難しいだろう。たとえ、気配を感じたとしても薄過ぎる気配は、不安や苛立ちを生じさせる。単身赴任者の浮気や被介護者の孤独、子どもの不安など、これまで問題とされてきたような事柄が生じるのも、人の安心出来る気配がなくなったのが要因の1つともいえるだろう。また遮られることに慣れてしまえば、他者への配慮と礼儀が欠ける言動が増える一方、知ってもらいたい病やマナー過敏の現象が生じる。
 
これらのことを感じ取っているのかは知らないが、各地で「見える」住居が建てられている。これは、外や住居内から生活の一部が「感じ取られる」ような建物のつくりだそうだ。以前、TVでこのことを知ったとき、「すばらしい」と声に出してしまったほどである。礼節があれば、人に見せるべきものと隠すものの区別はつき、マナーや批判に対してそれほど過敏になる必要もないことはわかるはずだ。そして、礼節は人と接することで培われていくものだ。