Archive for 2012

「基本」と「らしさ」

2012.12.26

不調のときほど、基本に返るということを重視している。僕の場合は、造形美術(写真)が主なのでデッサンに返るのだけれど、デザインを始めてからは基本が盤石に見えて心地良いセンスが上乗せされている広告や誌面の分解をしている。
 
調子が良いときと悪いときでは、デッサンも分解もそれが顕著に現れてくれるので、「判断」と「判断を体に伝えて具現化すること」の診断が出来て助かる。
 
「形は見えているかな」、「陰影は見えているかな」、「過不足なく表せるかな」、「予想と合っているかな」、「誤差はないかな」など、センスや個人差と呼ばれるものとは別の、これを仕事としている人が前提として保たなきゃならないことが調整出来る。
 
家や自分の基地で仕事をしていても、ルーティンワークを大切にしていることとも通じているけれど、「自分らしさ」を謳う前にベース(基本)が出来てた方が良い。学校で習わなければベースを習得出来ないことはなく、ひたすら訓練を自分に課していけばベースは盤石なものになっているだろう。そして、ベースが力強いものになって初めて、オリジナリティは帯びてくるんじゃないですかね。しかも、自分が意図しないところで、いつの間にか帯びてくるんでしょうね。


家事と仕事

2012.12.25

普段から週一回のペースで掃除をし、最近は時間が出来たときに、普段はしないような箇所の掃除をしている。家事の素晴らしいところは、ゴールがわかりやすいというところだろう。掃除だったらゴミがなくなったらお終いだし、料理だったらご飯が出来たらお終い、片付けだったら片付いたらお終い。
 
「何、当り前のこと言ってんの?」と呆れられそうだけれども、僕らが普段していること(作品つくったり、広告をつくったりなど)は、ゴールや目的があっても決着のつき方は主観的な部分をかなり占める。たとえ、マーケティングなどで効果測定をして数値化しても、その数値には誤差があるし、誤差を考慮に入れた上で、決着がつくように結論を下す。
 
このように言っていると、家事と制作は違うと聞こえそうだけれども、僕は「程度の差」だと考えている。掃除だって、完全に微生物をなくすまで終れないのであれば苦行になってしまうし、制作だって「これ、サイコーっすよ!!」となれば終らすことが出来る。そして、終らすことを選ぶのは自分自身だ。
 
「もうちょっとやりたいな」、「もうちょっとやらなきゃいけない」、「もう一踏ん張りだな」、「もうやめよう」など、様々なニュアンスで結果は大分違ってくる。けれども、こう考えているのは全部自分だし、家事や仕事問わず、よく考えることのはずだ。
 
いつもベストな結果になるような判断をしたいけれど、そのためには、「自分が望んでいること」と「環境を洞察すること」がやっぱり大切になるんだろうね。


結局ね、作品なんですよ

2012.12.24

眠りにつく時、「このまま死んでもいいか?」と自分自身に尋ねている。まだ外が暗いうちに目覚め、青黒い景色が青白くなっていく様子を眺めながら、「あぁ、今日も生まれたんだ」という気持ちになる。歓喜でも絶望でもなく、そうであることを認めていると言うのが適切だろう。
 
上記のようなことが著しくなっている。「The 30 years work.」を開始してから半年近くなる。「究極の一枚が出来るのなら、自分の命ぐらいくれてやる」とは昔から言っているが、結局ね、そこが大事なんです。
 
世間を見ていると、やり方を増やしていったり、茶化し合うような闘い方だったり、もう辞めませんか?という気持ちになる。全部、自分自身のやっていることに自信がなく、無闇矢鱈と恐れや不安を抱くことが発端なんじゃないだろうか。印刷物だって、Webだって、映画作品だって、写真作品だって素晴らしいじゃないか。無尽蔵に金儲けをしたいのか、多くの人に理解、支持されたいのか、有名になりたいのか、作品をつくりたいのか――望むこととやることの辻褄が合わないのが、やり方主義に陥っている原因なんじゃないだろうか。
 
国や人種や背景が異なっていても、「それイイネ~」っていう気持ちを抱くのは共通だとわかれば、やっていることや作っているものが違っても、そんな人達と出会ったらみんな仲間ってことで良いと思うんだよな。


人参が、甘いんです

2012.12.22

今年になって自炊での調理法が簡素になるのと伴って、昆布を汁物に入れておくようになったのだが、これがすこぶる美味しい。サムゲタンの時には入れてないが、サムゲタンの調理法を覚えた(と言っても、弱火で2時間ほど煮込むだけだけど)ことで、昆布出汁の効果がおそろしく良いのだ。煮立たせるわけではないので、余計なとろみは出てこないのに旨味はたくさん出てくる。けれども、この旨味を損なわないためには、味付けもシンプルにする方がいい。
 
即ち、調理法もシンプルになりならがら、味付けもシンプルになっているのに、旨味は今まで以上になっているという、料理版断捨離のようになっているのだ。
 
人参がね、すごい甘いんですよ。幸せだな~。
 
そして、動きや要素がシンプルになっているのに、結果はよくなっていることってたくさんあるんだろうな。作品とか、仕事とか、交遊関係とか……けれども、それらに気付くためには(自分がそうだったのかもしれないけれど)、複雑化したり、もがいたりして良い結果を出してきたことが必要不可欠なのかもしれない。シンプルにするのも、複雑にするのも、やり方の話なのだから表面的な話であって、結果の判断が出来なければ意味がないし、どっちが適しているかは人や場面によって変わってくるはずだ。
 
つまり、シンプルにするのも、複雑にするのも、もがいて(ギリギリでもいいから)良い結果を出してこなければ、「何が必要なのか」という中身の判断つかず、判断のつかない人達に、こういうことを話しても暖簾に腕押しだということはわかっている。けれども、たった一人でも、背中を押すことが出来たら充分なので、僕は話しているんだろうな。


冬、教会

2012.12.21

昨夜はKさんの粋な計らいで、チャペルでコンサートを聴くという「らしくない」ことをしていた。
 
「チャペルで音楽を聴くのって、いつ以来だろう」と思い出しているうちに演奏が始まり、響き始めた瞬間、胎内にいるように音楽にくるまれた。母の中、父の中、大きなものに守られているような、そんな心地で音が動いた。
 
途中で気付いたのだが、衝立て(?)風の奥にある壁面に映った影がカッコイイと感じた。影がカッコいいということは、本人の動きが美しいということだ。幻想性が高くなり、格好良さよりも美しさが際立ちやすい影の動きがカッコイイということは、本人の力であるし、合わさった人達、構成された場の力だ。
 
影に気付いてからは、本来のビジュアル、影のビジュアル、奏でられる音楽、そして包まれる胎内に身を委ねていた。
 
とてもカッコイイ人達と音楽でした。
ありがとうございます。
 
ちなみに↓これにいったのだ。
榊原大&セレブ弦楽四重奏団クリスマスコンサート