Archive for 2011.10

夜の出来事

2011.10.10

 銀座で呑んでいて、終電間際を走り込みギリギリセーフを狙ったら財布を落としたことに駅で気付き、全てを諦めた。「まぁ、しゃあないか」と面倒臭さ混じりに交番に行き、紛失届を書いたら、「じゃあ、次は受け取りのサインをね」と言う警官。「?」ときょとんとしていると財布を持って現れるじゃありませんか!? あまりの叫びっぷりに警官も驚き、呆れ顔だが、拾って下さった人はお礼をいらないとのこと。こういう時って本当に何も教えてくれない…しかーし、お礼をしたいじゃあありませんか!? とりあえず、「他人に優しくすること」が、いつの日にか拾ってくれた人へと循環するだろうと思ったのだった。
 
 一日休んで(5年振りぐらいに漫画喫茶に泊まったら、身体が痛い…)、浅草へ。誘われた加藤さんはいないけれど、別の加藤くん(だいちゃん)と久し振りに遭遇。別れた後に、別件で打ち合わせがてらの呑み。屋台で話をしていたのだが、こっちの話の内容が隣客にも移り、話の種類が伝染していくのは面白かった。このまま店中に伝染していき、客の全てが話を共有出来たら、平和なんじゃないかと夜の浅草で思っていた。

最後の最後には

2011.10.6

 多種多様な道具を使い、多岐に渡ることをして、他業種の方々と会っていてもプラスに変えることが出来るのは、一切の道具がなくなれば大地に絵を描けば良いことをわかっているし、手足が動かなければ頭の中で作品を創れば良いことをわかっているからだ。複雑な行いをしていても、考えがシンプルであれば大丈夫なのだ。
 
 
 それよりも心配になるのが、高校生や大学生と話していて、彼らの言葉が「大人からの入れ知恵」のような手本通りの回答を、何も疑わずに純粋な目で言えているということだ。そして、「完璧」であることを求め過ぎているように見受けられるのだ。ゴールとそこへ辿り着く方法論が分かった上で、ゴールに辿り着くという意味で「完璧」という言葉を使っているのであれば頷けるが、どうやらゴールにならないあやふやなところに完璧さを求めているようなのだ。それ故、大人が少しいじわるな質問をすると、途端に自信をなくしたようになるのが、先の彼らの発言が自分の言葉として言えていないかという証明になっているというのに。けれども、そういう子に限って優しいし生真面目なのだから、「大変だろうな」と人の子ながら気になってしまう。
 
 

人と…

2011.10.2

 今週は、人「と」生きることについて考えることが多かった。たとえ誰とも会わずに生活をしていても社会に属していれば、間接的にでも人と関わることになってしまう。ただ今回は直接的に関わることについて考えを巡らすことが多かった。PCに関わる全てのことの師匠と呼べる人と離れる時に、Macを更に安定させる「おまじない」を教えてもらい、最後の最後までお世話になりっぱなしで僕は彼に何を返すことが出来たのだろうかと…その他にも色々と重なり、「人と一緒に生きること」について考えることが多かったのだ。
 
 しかし、行き着く所がいつも「作ること」になってしまうのだった。物心ついた頃から「作ること」と「内省」を繰り返し、今や呼吸をするのと同じ位、当り前のことと化してしまったこと。極度の面倒くさがりの自分が日々の面倒臭いことも行えるのは、作ることに関わってくるからだったり、人と話をしていても最終的には作ることに結びつけていることが多い。それほどまでに身に付いてしまった「作る」という行いは、そうではない環境へ自分を向かわせないという一面もあるのだが、
 
 しかし、これも子どもの頃から身に付いている「物事に優先順位をつけること」の習性によって、「作ること」が最上位にきてしまうのだった。
 
 今の繰り返しが未来を創るが、果たして、この先に何が出来、何があるのだろうか。