Archive for 2011.5

温かいお茶が飲みたいが、無いのなら仕方が無い

2011.5.29

 人は裏切るので、初めから期待しないようになってからどれくらいの月日が経っただろうか。死にそうな人を前にしたらその後の彼の人生を考えずに助けたくなるものだと気付いてからどれくらい経ち、憎しみだけでなく優しさと愛に気付いてからどれくらいの月日が経ったのだろうか。しかし本質が変わるはずも無く、憎しみに支配されていた頃よりも愛と可能性に気付いた後の方がタチが悪い。いつでもあっち側に堕ちることも出来るし、いつでもそっち側に昇ることも出来てしまう。けれども、憎しみと怒りでの日々の消耗と疲弊は今考えると末恐ろしいエネルギーだった。それ故、憎しみで支配されている人に「疲れたね」と抱きしめることが出来るようになってからどれくらいの月日が経ったのだろうか。真ん中でいたいのなら何もかもも知りながら、高まる意味がない。今日は雨。洗濯物が乾かず、雨脚は強くなる。

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医術、藝術、科学の道

2011.5.27

 死にまつわる文献を読んでいると大別して3つのパターンにわかれるということがわかった。1つは「無になる」、2つ目は「肉体が死ぬだけで、精神(魂、etc)が自由になる(精神は生きている)」、3つ目は「精神が死ぬが(精神という機能が停止するが)、肉体は腐り、骨となり、どこまでが生なのか、死なのか」というパターンだ。そして、死に対しても「わかる」、「わからない」という前提で話を進める2つのパターンがある。
 
 このパターンで進めると、僕は死を「わからない」前提で、わからないからこそ、全てのパターンがある程度合っているともとれるし、全てのパターンに対して懐疑的な立場なのだ。そして面白いのが、どのパターンで話している人であっても、この手の本質を「わかる人はわかるし、わからない人はどうやってもわからない」と言っているところである。その点は僕も同じに考えていて、どんな人間でも自分にとって正しいことしか考えていないので、わからない人はその人として正しいとする考え方や癖を持っているのだから、その場でわかったとしてもフリなのだ。
 
 もう1つ面白いのが、どのパターンも結論としての考え方が異なっているのに、根底の考え方や道筋は同じであったり、近かったりするのだ。なぜ、こうまで異なる結果になるのだろうと考察してみると、それぞれの職業に由来することを発見し、「職業というのはその人を表すのだな」と思ったのだった。そして、どの職業も身近にして育ったことに思い当たって、笑ってしまったのだった。

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もう一回更新

2011.5.22

「with 10 years」

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更新

2011.5.21

「with 10 years」

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午睡散歩の時間

2011.5.15

 お昼を食べてから判子の入稿を済ませ、散歩をしていた。1時間半ほどの散歩だったのだが、日吉に住んで6年、一度も歩いていない道を選んで歩いていたら、案の定、軽く迷った。帰る場所が何となくわかるという安心感もあるのだろうが、この迷うというのは心に新鮮味を与えてくれる。そして、穴場スポットを見つけた。高地と低地を結ぶ階段があったのだ。視界が抜けており、昼寝をするのにも充分なスペースが確保できる。けれども、寝ている横を通り過ぎる人には、毎度怪訝な表情を浮かべられるのは面白い…これが山だったら自然と挨拶をしてくるのだろう。今は風のせいで何かが軋んでいる音が鳴り続けているが、これも移ろいだ。世の中はあるものだけがあるにすぎないが、それがわかってもう何年経ったのかも既にわからないが、世の中にいるのも、知識があるのも、あるものだけが生まれていくのも、そろそろ飽きてきた。散歩途中にアイスを買って、照りつける太陽と風が吹く中、「ムシャムシャ、う〜ん、しあわせだなぁ」と思っていたとしても、飽きているのには変わらない。

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「四季無常図」について

2011.5.11

資料「四季無常図」について

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「やぁ」と「まぁ」

2011.5.7

雨。雨だ。曇りと言いながら完全に雨だ。カメラとPCとソフトを購入しようと思って色々と計算し、テストシュートなどしていてカメラが一番購入する必要がなく、今まで通り、借りたり、技術でカバーしたりでいいやという結果に。技術は翻弄されなければ裏切らないので良い。「一眼も中判(カメラ)も持っていない写真家ってどうなの?」と突っ込まれたりするけれど、まぁいいじゃないと。原板3GBの静止画って8GB〜10GBを制作中は超えて、PCに4GBしか乗らないんだもん。添付のソフトじゃ、背中から腕が生えて、その腕を打ち抜いたらパンって破裂して、飛び散った破片が種となって地面からドドドっと樹々とバシュバシュっと氷柱が駆け上がって生えて、太陽のコアまで伸びて刺さったら蟻んこが生まれて「やぁ」って言うのが作れないんだよ。作っているものは一端すぎて、時間なんて足りないけれど、まぁいいか。

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人生のかなしみ

2011.5.7

年を重ねることとかなしみが積もることは正比例するのだろうか。喜びの裏にはかなしみがあるが、かなしみの裏に喜びはあるのだろうか。たとえ幸福があったとしても。雪のように降り積もり、いつか溶けるのではなく、巨大なクレバスとなり、我が身は徐々に凍り、寿命が尽きるまで降り積もる。

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穏やかな阿呆の日

2011.5.4

家事と並行して制作や作業で朝が終わり、資料も遅れながらも進む。先日、友人と呑んでいて「(作品の)アイデアが浮かばなくなったらどうするの?」と尋ねられ、「そしたら違うことをやればいいさ」と言ったが、あながち本当だ。作品を創作しているときというのは毎度「これが最後」と思って挑まなければ、消化不良に陥るし、挑む姿勢が問題点と次のアイデアを自分で見つけられる理由だろう。
今、手掛けている「with 10 years」「四季無常図」も「眠りの間にも魂は燃えている」も数年前の自分であれば創作することは出来なかった。藝術はデザインと違って「自分発信、他人仲介、自分帰結」であり、自分が問題点となり答えを見つけていくことを、やり続けることが出来るか、否か。そして、「自分=他人」ということがわかれば、その強度は増し、「他人=自分」を意識しない表面上の他人と会っていくことの方が消化不良に陥っていく。藝術家の孤独が増していくのはこういうときだが、原因はいつも阿呆らしい。

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日々の中身

2011.5.3

日々が流れていく。その中には喜びも悲しみも含まれているが、無常にも日々は流れていく。それは夢も同じで、荘子の胡蝶の夢のように、夢の方が現実か、夢ではない方が現実か。融解していくのも日々の中。お前を守れなかった日、俺を守れなかった日、もう二度と会えない人…のはずが夢の現実では、その後に訪れることも知らずか起きずか他愛のない話をする。その後、夢ではない方の現実で後悔と無力さを思い出す。日を重ねるごとに強度が増していく。若さと異なるのは紛らわすことをしなくなったことだけだ。喜びも悲しみも積み重なっていく、それが日々。

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