Archive for 2011.3

当たり前の理由

2011.3.26

 何故、いまさら「作品を創るということ」という至極当たり前なことを書いたかというと、日本に疑問を持つからだ。それは震災前も震災後も変わらず、震災後は言動がわかりやすいので目につくという点で、書いたのかもしれない。

 震災直後は不安や苛立ちが東京を取り巻き、そんな状態は1週間近く続いたかと思えば、その状態に我慢が出来なかったのか、はたまた反動なのか「いつものように」と言いながらいつもはしないであろう作品を売ったお金を寄付したり、「がんばろう」と無闇矢鱈と言い放ったり、欲の塊の普段の姿を見たら安心したりと、日本人に疑問を抱いていた部分を露骨に見ることになっている。

 そして、このような時にしか生じない現象なのだから風化はするだろうし、今しか寄付や募金をしていない人達はすぐにしなくなるだろう。現に、遠い国のNZ地震のことは既に話題の外だし、シエラレオネなどの貧困国に寄付などをしているかというと、そんなことはない。

 作品を創るのなら作品で感動してもらって、勇気づけるということが私達の仕事のはずだし、もしも、今回のことから募金を始めた人達がいるのなら、これからも続けて欲しいのだ。「今」は今しかないが、「今」が続いて生活になるのだから。今回のことから考え始めるのは良いことだと思われるが、続けなければ、1つのブームとして終ってしまうのだ。


四季無常図のさわり部分

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作品を創るということ

2011.3.25

作品を創るということ

ゆっくりと速く
静かにざわめき
冷静に燃えたぎり
溜込み 発散させ
とどまり 動き
未来を感じ 今を忘れ 現在(いま)にいる
夢のようで 現実にいる
相反するようで直球だ
終わりのはずが 次が生まれる
時代がつくられる

作品を創るということ

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大丈夫ってこと

2011.3.17

 悲観的になるのも、楽観的になるのも全ては主観なので何とも言えないが、創作が進む。お金を得るという意味でも、役割という意味でもこれが僕の仕事なのだが、着々と進んでいる。

 なまものや青果は売れ残っており、元から自炊派なので品切れにはさほど困っていない。しかし、海外の人達からすると日本は絶望的に見えるらしいのだ。これは僕の周りの人達からもよく聞かれる。けれども、大丈夫。もしもこれが戦争で、創作が不可能になれば亡命するかもしれないが、そうではないのだ。僕は日本に残り、日常通りに作品を創っていく。創れなくなったら、頭の中で創っているだろう。だから、大丈夫です。

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Please, save power. Please, save energy !!!

2011.3.14

 震源地から離れている僕達がやるべきことは、「普通でいる」ということだとつくづく思う。普通に仕事をして、募金をし、「こっちは大丈夫」ってことを見せることではないだろうか。人それぞれなのだろうが、節電をして作業を進めることは出来るし、生活はできる。けれども、その場にいないにも関わらず、普通ではないとするから食料がなくなり、電波が乱れ、人為的被害が増えてしまうのだ。

 募金だって普通のことのはずだし、もっと遠い国々にいる人達に対しても同様のはずだ。普通に自分のやるべき仕事をして、無闇矢鱈と生活品を買い漁るためのお金を義援金に回すだけで、電波は乱れないし、食料や物資もなくならない。会いに行かなくとも、こっちから「大丈夫だ」と伝える術はあるんだ。

 僕は金曜日に歩いた道を、今日は車で送ってもらっただけで感動したし、そのちょっとした感動を優しさに変えて、ちょっと動くだけで大分変わると思っている。

 Please, save power. Please, save energy !!!

 ↑節電って英語合ってる?

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離れた場所と時にいる人々

2011.3.12

 不思議なもので、地震後、三田から徒歩で日吉まで帰宅し、ガス・水道・電気・作品・家族の確認をすると一瞬で日常に戻り、風呂に入っている間に洗濯をして、その後、仕事に取り掛かった。地震直後は電波が混雑して家族と連絡はとれないのはわかっていたし、繋がってもガスなどの諸々のことを確認しあって初めて落ち着くのもわかっていたので、炭水化物とタンパク質と脂質を摂取しながら自宅までの経路を探索して、排泄をしっかり済ませて徒歩で帰った。同じように徒歩で帰る人達での混雑も予想されたし、車も動かないので、大通りを避けたり、車道の脇を歩いていたら3時間で到着。道中は、バックパッカー時代のひたすら歩いていた時のことを思い出したり、停電からの日吉駅前の真っ暗な商店街がなかなか新鮮だった。そして、普段通りの土曜日が始まったのだが、社会はそうでもないのだ。

 しかし、震源地から離れたこういう場所や時にその人の本性がでるのだろう。享楽的もしくは悲観的になるのか、仕事を全うしようとするのか、家族の安否を最優先にするのかなどなど・・・。酒で紛らわすのは最後の最後にとっておいて、普段通り、僕はベストのベストを尽くしてみたくなる。

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さすが、世の中で最も読まれている書物

2011.3.10

 「聖書」を読んだことはないが、人の話を聞いたり、引用などから得た知識からでは、良く出来ていると思った。

 無に興味が湧き、それを知ることが人生の第一となると、自ずから死以外にはありえないことに気付く。しかし、聖書曰く、自殺は罪であり、地獄行きだそうだ。ここでは、行き先がどこかは問題ではなく、「行く」ということが出来るということは「存在している」つまりは、「無」ではないということなのだ。「自殺をすれば「無」ではないよ」と書いているらしいのだが、「地獄行きだ」と言われるよりも痛烈に自殺を踏みとどまらせる効果がある。そして、無を求めて死んだ結果が、「有」であればその者にとっては地獄に来たようなものだろう。そういう意味で地獄行きと書いているわけではないのだろうが、かなりウィットのある書き手だ。

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死んでいる人と死んでいない人の違い

2011.3.9

 本は常に何冊かを同時進行で読んでいるが、その1つ『パラドックス大全』に懐かしさを覚える。子どもの頃に疑問に思い、青年期あたりで答えに辿り着いた考え事が載っていて、「あぁ、あの問題は誰それが言っていたな」と先人の素晴らしさと人間の変わらなさ、そして、それを知らずに考え、自分の言葉として大発見をしたと喜んでいたら既に言われていることへの落胆など、様々な懐かしい情景を覚えるのだ。ある1つの考えから、また別の考えへと繋がっていく様子も合致していると、「あぁ、そんなもんなんだな」と諦めるしかないが、いかんせん僕はまだ死んではいない。正確に言うと、まだ考えることができ、それを人に伝える手段を持っている。

 仮に死んだとしても、無にならずに死んでいない状態と同じように考えることが出来たとしても、死んでいない人間にその考えは伝わっていない。それ故に、死について語っているのは全て死んでいない人間なのであり、未だに解けない謎として「死」が浮かび上がってくるのだ。

 そして、幸か不幸か、先人たちは既に死んでおり、たとえ考えることが出来ているとしても僕達にその考えを伝えることは出来ていない。なので、僕は、彼らの死後の言葉や考えを全く聞くことはなく、その先の謎や命題について考えることが出来るし、伝えることができるのだ。それさえも幸か不幸かはわからないが、先人と僕との決定的な差である。それを理解するだけで、僕は人生に彩りや豊かさをもたらすことができるし、故人に「ありがとう」と言える。

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IKAROS

2011.3.6

「IKAROS」をアップしました。

http://www.maroon.dti.ne.jp/sdc/html/index.html

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夢と現実の違い

2011.3.6

 細胞が刺激されて分泌液が発生し、重力に導かれるままに腔を這い進み、外の世界を見られると思ったのも束の間、けたたましい交響曲とともに天使の羽に包まれる…花粉症である。毎年、どこかのキャスターが「今年の花粉は例年以上…」と決まり文句を言っていたが気にせずにいたら、今年は酷い。

 そんな状態の中、三木さんの明るい部屋最後の個展へ。おそらく、いや、あの展示においては「絶対に」と確信が持てる程の素晴らしい時間帯で見ることが出来たので、普段から健気に頑張っている自分への藝術の神さまからのご褒美だと思うことにして、ちょっとにやけた。その後、会話も弾んだせいもあって、「そうではない時間帯」で会場を見渡してみると、やはりと思った。

 そういえば、藝術の神さまは女神ということを以前、聞いた。僕の性格上、藝術の神さまが男性だとしても「女性の方がいいよね」ということでそう思うのだろうが、歴史や神話を紐解けば、女神ということがわかってくる。それと、僕の夢では味覚と嗅覚が働かないということを最近になって気がついた。関係のないことを書き綴っているようにも思うだろうし、まだ確かなことは言えないが、主観とか宇宙とかではなくて、これらのことが巨大な何かによって繋がっているような気がしている。

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