Archive for 2011.1

思考の停止

2011.1.16

 先日、明るい部屋の遠矢さんと番狂せで話をしていたら、笑っていたので笑った理由を尋ねたら「久々にエグチ節が聞けた」と言われた。当の本人である僕が「エグチ節」をわかっていないので、「エグチ節」なるものを質問したら「思考の停止がない」ということだった。

 話は飛んで現在、原研哉さんの『デザインのデザイン』を読んでいるのだが、今の所、全ての項目で何かしら関係してしまっているところに、この人の仕事の多様さ、浸透性に嘆息してしまう。そして、「無印良品」のことが載っていたので、先の遠矢さんの「思考の停止がない」ことと関わるので、ちょっと書こうと思った。

 無印良品はいわずと知れた世界ブランドだと思うし、様々な人達が使用し、浸透しているブランド力を持っていると思う。しかしながら、ブランド力を誇示することなく、一歩も二歩も引いた所で僕達を充足させてくれる希有なブランドだと考えられる。もちろん僕もこのブランドの商品を使用しているのだが、それはトップスだ。

 肌着からTシャツ、そしてシャツを使用しているのだが、これは専ら仕事着になっている。撮影や制作などの仕事柄、照明や反射光など色に関わることから柄などの、視覚領域全般に渡ってセンシティブにならざるをえない。しかし、Yシャツなどのビジネスシャツを使用していると汚れや皺が気になってしまうので、ニュートラルな無彩色で、汚れてもしわくちゃになってもガシガシ着倒せるトップスが必要になってくるのだ。それをオールクリアにしてくれるのが、無印良品であり、作家業などの創作を仕事として考えるようになってからは、無印良品のトップスばかりを採用するようになった。作る(もしくは創る)という作業は有能感を生みやすく、制作物よりも制作者の方が目立ってしまうような場合があるが、大抵そういう場合は、けばけばしい格好であったり、自分の好きな物だけで身を固めようとしている場合が多く、見ていて品に欠ける。そういう格好は、仕事から離れたときにするべきであり、自分のやることに対しての相応しい格好があるものだ。

 もちろん、こういう考え方は学生時代にはそれほど強くはなく(学生には学生の格好があるとは思っていたが)、思考の状態が学生時代のものから動いているということであり、思考の停止がないということの結果なのだろう。


↓FFLLAATTでの二人展です。
http://ffllaatt.com/exhibition/eguchi-hata/detail.php

アトリエ更新

2011.1.9

 アトリエ改造が漸く一段落し、現在、新アトリエで作業をしている。とりあえず今の所は快適に使えているが、1つの作業しかしていないので、これから色々なことを経験して、その都度微調整をしていくのだろう。これでまた1つ、引っ越しが延期されたような雰囲気もしなくはないが、この配置ならある程度の広さを持った場所であれば、同じように再配置することが可能だ。

 なぜ、今更アトリエの改造をしたのかというと、そろそろ工夫を凝らしての作業配置ではなく、手放しで快適に動ける作業環境にした方が、異なる場所に智恵を使えるだろうと思ったからだ。今まで培ってきた創意工夫の智恵を、更なる成長のために使うためには(慣れてしまった)余分な動きを極力減らすのが良いと確信したのだ。

 それは、約1年前に切れてしまったアドレス入りの名刺を更新しようとも思ったのも関係しているのかもしれない。僕は2種類の名刺を持っているが、その片割れがなくなったまま1年を過ごした。その名刺を制作した時に、友人から「横位置はこれから広がるようにという意味で若手に向いていて、縦位置は一本立ちしたという意味があるんだよ」と教えてもらい、僕は横位置を選んだのだった。そして今回は、縦位置にしようと思うのだ。初対面の方々から「カタカナの名前ですよね?」とおっしゃっていただけることが以前よりも頻繁になってきたということもあるが、少しずつ背伸びをするのが僕の生き方でもあるからだ。


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http://ffllaatt.com/exhibition/eguchi-hata/detail.php

英語

2011.1.7

 英語でメールが来るようになり、最初の内は「スパムか?」と怪訝に思ったが、よくよく読むとそうではないことがわかり始める。自分の英語力が日本語のそれと比べると、とてつもなく拙い能力であることが自分でもよくわかっているが、機械翻訳よりかは出来るぐらいのこのぐらいが、何も気にせずに能天気に扱えるので気分が楽だ。

 日本語では文章も書いたり、資料を読んだり、古典に触れたりするので自ずとボキャブラリーも言語力も上がってきて、1つ話すにも色々なことに気がついてしまって最近は疲れてしまうことが増えた。自分の使う日本語にも気付いてしまうのだから、他者が使う日本語においては尚更のことであり、日本語から離れたいと思うことも度々起きるようになってきた。

 何処に行っても創るものは一緒だし、自分次第なのはわかっているが、「参ったな」と思い始めている。

 しかし、頻繁に人から「英語できますか?(できますよね?の意味として)」という類の質問を受けるのは、何故だろうか。


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合理性工場

2011.1.4

 今や安価に家具やオフィス用品が揃うことで有名な、某外国産の家具店に行ってきたが、フロアを巡っていると、養老孟司さんの「脳化社会」という言葉を思い出したのだった。

 そこは、順路通りに進むのがベストな買い物方法であり、その店が提示した道から外れると、途端に自分がどこにいるのかわからなくなる。そのためだろうか、フロアの至る所にフロアマップが設置してあり、そのマップにも順路と現在位置が記されていた。レジの仕組み、カートの位置など全てが合理性の集合体のようであった。

 この合理性で、ある側面では人間を含む生物は進化してきたが、合理性だけではない部分も含むのが自然というものであり、人間も自然である。合理性を批判するのでもなく、完全な合理性だけでもないのが人間であるはずだ。なので、この合理性工場の製品と、そうではない、手垢だらけの品々を合わせて良い環境ができればと思う。


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祖母のチョッキ

2011.1.3

 姪っ子と会ってきました。子どもの成長は目に見えて素晴らしいものがありますね。毎度毎度の叔父バカぶりを発揮するのもなんなので、今日はばぁちゃんの話を。

 僕が冬場になると履き始める毛糸の靴下は、ばぁちゃんに編んでもらっています。靴を履かないとパンツの裾が地面と擦れてしまうので、冬場はこの靴下にパンツの裾をソックスイン出来る優れものです。暖かいし、便利なこの靴下を穴が開いては、この時期に持って帰って紡いでもらっています。思えば、靴や服を補修してどうしようもなくなるまで使い続ける僕の性質は、ほつれた編み物を毛糸まで戻し、再び何かを編み始める祖母の姿を見ていたことと繋がっているかもしれないです。

 しかし、今回はチョッキを貰ってきたのですが、これがすこぶる暖かい。毛糸を編んだだけのたった1枚のベストが、これほどまでに暖かいものなのか、新たな発見とともに、冬に最適な服ではないだろうか。たしか千住博さんも著書の中で、母のつくってくれるおにぎりのことを取り上げていたが、僕にとっての一番の服もばあちゃんが編んでくれたものだろう。


 年賀状をくださった方! すみません、今年は展示会のDMもあるので、他の人にはないスペシャル版として送ります。遅くなってしまいますが、ご勘弁を!