Archive for 2010.12

明日から展示会

2010.12.31

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/news/news_exhibition_2.html

明日から秦雅則さんとの2カ所同時2人展の1カ所目が始まります。
アーティストトークは1月29日(土)20時から明るい部屋にて行いますので、皆さま是非来てください。

今年もたくさんの人と関わり、ありがとうございました。
来年も頑張るのでどうぞよろしくお願いします。

ではでは、よいお年を。

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あんこ

2010.12.30

 この6日間、ほぼ呑み会(ハシゴあり)の珍しい日々を送り、正直なほど体が痛み始める。その最終日、買出しであんこと間違えて水煮の小豆を買ってしまい、皆が帰った後にいそいそとあんこを作り始めた。

 基本的にジャムと同じ様な作り方なので、砂糖と水でことこと煮続ける。しかし、完成間近の焦げ付かないように混ぜながら煮ている時に「日本のジャムだ」とハッとして、この2週間はひたすらジャムを作り続けていることに気付いた。

 果物をもらうようになってから僕はジャムを作るようになったが、その素養が僕にはあったのだ。僕の祖母は大のあんこ好きで、よく煮ては特大おはぎやお汁粉を作ってくれた。お店で食べるような上品な甘さではないし、舌触りも滑らかではないが、僕はこれ以上に美味しいあんこを食べたことがない。まん丸の粒や潰れた粒が口の中で存在感を示し、甘さの味覚と口の中の触覚を刺激してくれる。そのバランスは既製品のあんこでも出せないし、お店で出してくれるあんこでもお目にかかったことがなく、外で食べるあんこに僕は物足りなさを感じている。僕はあの家庭で育ち、あの食生活で育ったのだ。今、僕が何かを煮て作ることは僕の中に根付いている性質であり、祖母から受け継いだあんこ好きが和(あんこ)と洋(ジャム)を結びつけ、僕の人生に彩りを持たせてくれる。

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夜の六本木

2010.12.22

 小谷元彦展を観に森美術館へ。夜に森美術館へ行くのは初めてのことであったが、六本木駅の混雑ぶりに少々、気圧される。web作業後の疲労と空腹も相まって「先端芸術を観るのにこのままじゃいかん!」と思い、地下のラーメン屋へ行くも出てくるまでに寝そうになるほどの体調にはきつい、油まみれのラーメン・・・丼には「支那そば」の文字が・・・。

 けれども体は現金なもので、酢をたっぷり投入したラーメンを食べ進める内に頭が冴えてくる。その足で美術館に向かい、券売所を横目にすいすいと招待券で入り、さくさくとクロークに預けものをし、小谷元彦展を見始める。

 内容は既に皆さんがご存知のように、彫刻や写真や映像といった諸媒体が、彫刻からのアプローチで作られている。順路が進むに連れて、作品の緻密さが増していくような展示構成になっており、体感型の滝作品、その後につづく「ホロウ」シリーズの影が美しい。実際の作品以上に、作品から生み出される影に魅了され、その後に出てきた六本木の夜景(美術館に行ったことがある人ならわかるガラス窓のところ)に「この夜景の中に人が生きている、人を含む生物が生きているのだ」と思うと、安らかに眠るような感覚になって美術館を後にした。

 ※ それにしても、夜の六本木ヒルズってあんなに混むんですね。あの夜景を前にしたら、シャイな僕でも「じゅでーむ」って言いたくなるかもしれないです。

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発することと受けること

2010.12.21

 今、『ミミズの話』(著:エイミィ・ステュワート、訳:今西康子)を読んでいるのだが、これが面白い。ミミズと言えば、今では夏の炎天下に「あちぃ」とうだって歩いていると道路で干涸びている姿を見つける程度になってしまったが、小学1年生の頃は、教室で飼っていた金魚の餌として校庭からよく採っていた。

 この本との出会いは偶然であり、先日、大判プリンターが空くのを待つついでに、本屋に寄って見つけたのだ。本読みになってからは、本屋や図書館などの本が集まる場所に行くと、その時に自分が読むべき本が僕を導いていくような気になる。そして、いつの間にかその本の前にいて、手にとり、読み始めているというような流れだ。

 これは作品でも同じで、今、創るべき作品が僕を導き、創らせているような気持ちになる。本読みと違うのは、導かれながら、間違わないように、且つ、より良くなるように意識を高め、必要な動きをするということだ。感覚はどんどん鋭角的になっていってしまうが。いや、もしかしたら本読みも一緒なのかもしれない。言葉が厄介なのは、読んだ気になってしまうということだ。内容を咀嚼しなくとも、作者の書き方や伝えたいことを予測しながら読まなくても、字を追っていけば自ずとページは進んでいく。それで、言葉を知った気になり、本を読んだ気になる人達が多いのではないだろうか。それは作品も同じで、だからこそ陳腐で粗雑な作品が、この世の中に溢れているのではないだろうか。

 言葉を読んだり、話したり、作品を観たり、創ったりという受けることと発することは、同質上にその人にあるのだ。つまらない言葉しか発しない人であれば、何も受け取れずにいるし、芯のある言葉を発する人であれば、必ず有益なものを受け取っている。

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老獪の力

2010.12.19

 忙殺とも言えたこの1、2ヶ月の中、今日は休養日のはずが、動いてしまう悲しい性。

 昨夜のトーク終わりに加藤さんから「僕らイロモノとして使われてますよ(笑)」と言われ、日本カメラの飯沢さんのコラムを拝読した。読んでみると納得とともに、老獪の文章力に見事の一言だった(失礼)。

 原研哉さんの著書を読んでいても、したたかだけれどもチャーミングで、初心や創ることにおいての大切なことを思い出させてくれる。

 僕は写真家としても藝術家としてもまだ若手で、ちょっと知ってもらえていたらラッキーな身分だ。ましてや、デザイナーとしては、ヒヨッコの「ヒ」の字にもなっていないだろう。そんな中でも、巨木の根のような1つの指針があることがわかり、後は、川の中の石のようにぶつかり、摩耗されて、丸みを帯びていけると良いと思った。

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日本らしさ

2010.12.18

 季刊誌『生命誌67』が送られてきた。僕はこれを毎回楽しみにしていて、この質とボリュームで無料配布というのは脱帽する。

 今回、思わず笑みがこぼれてしまったのは「イチジクとイチジクコバチ」の話だ。イチジクの花は、内側の花嚢(かのう)に咲き、花粉を運んでもらう役割をイチジクコバチが果たしているらしい。このコバチが自身の産卵のためにイチジクの花嚢の中に入り、産卵を済ませ、外に出るときに花粉を運ぶ。しかし、稀に産卵だけ済まして花粉を運ばない「ずるい奴」(裏切り者)がいるのだが、その花嚢は「ずるい奴」の子どもが育つ前に枯れてしまうのだそうだ。

 そして、この「ずるい奴」への子孫を残させないという(正確にはその子どもへの)制裁は、パナマのイチジクでは強く生じ、日本のイチジクではそれほど強くははたらいてないことがわかったと伝えている。

 僕はこれを読んで「制裁や攻撃性への優しさや甘さ、弱さなどの日本人らしさは、こんなところでもあるのだな」と思わず苦笑してしまった。日本の風土がそうさせてしまうのか、日本人がそうさせてしまうのか、鶏と卵の話のようにどこまで遡ればよいのか、長い歴史があるように思えた。

※ 鶏と卵は決着がついたみたいですね。

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情報通

2010.12.10

今年の文化庁メディア芸術祭の審査委員会推薦作品に選出されました。

誰にも知らせていないのに「おめでとう」と連絡をいただき、その行為に「あざっす」っていう気持ちです。

http://plaza.bunka.go.jp/festival/2010/recommend/

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