Archive for 2010.10

料理は愛情って名言

2010.10.29

 寒い。寒さは首が凝りやすくなってしまうのでとても大変だ。一年の半分くらいは夏でいいじゃないかと思ってしまうほどだ。日本は四季があるのが情緒的に良いと言われやすいが、今年なんて秋を感じる間がなかったし、昨年は夏が短かったような気がする。探してみればあったのかもしれないが、探さなければならない四季ならば、四季を感じないと言われる地域にも四季が出てくる。

 しかし、この寒さを克服出来れば、案外、良いことが多い。むしろ、人の体温が気持ちいいし、料理が美味しく感じる。料理といえば、普段、僕は自炊をするし、他人にも作ったりする。そこで最近、気がついたことに、人に作っている時の方が一生懸命に料理をしているようなのだ。これに気付いたのは、料理の味が違うと感じたからで、自分のためだけに作った料理の味が別に味覚として不味いというのではなく、温かみが少ないような味がしたのだった。そして、それは何だか、勿体ないような気もして、注意深く味わうことを続けていたら、「自分にも情を持たなきゃね」と思ったのだった。

 そりゃそうだ、何でも義務になってしまえばつまらないし、何よりも中身がなくなってくる。さて、スープが美味しくなる季節がやってきた。寒いと料理が美味しいのだ。

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ライブトーク2回目

2010.10.22

 明日、ライブトークの2回目があります。前回は「会場には入れません」と言っていましたが、入れるようでした。なので、会場で聴くも良し、ustreamで聴くも良し、ドキュメントで読むも良しの企画です。よろしくお願い致します。

詳しくはhttp://www.drunkafternoon.com/utility/livetalk_02.htmlで調べて下さい。

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動画も静止画も

2010.10.20

 写真をやっている人間が安易に動画を作ってしまうことに抵抗感を覚える。この抵抗感はスライドにおいても同じであり、本来、僕達は静止画を一生懸命に創作している人間であったはずだ。道具が近いからといって片手間で出来るほどの領域ではないことは、静止画をやっていてもわかるはずである。それは逆の立場からも言えて、動画といっても1コマずつ切っていけば静止画になるが、静止画として良いもので1つの動画を構成してしまっては話(流れ)に抑揚がなくなり、退屈極まりないものになる。

 だから初めて映像を作ったときは、映像作品としての常套手段を踏んでいったし、総合芸術と言われるが所以も理解できた(総合≠最高)。

 その後はそれまで以上に、映像作品(映画を含む)を観る時にカット割り、話、音響、配役、技術などに気を配るようになり、良い作品と出会うと連続で3回(楽しむ→どこが良い(悪い)のか調べながら観る→それを確認しながらもう一度楽しめるかどうかを試す)は観てしまうようになった。今までも良い作品は複数回観ていたが、連続で観るようなことはなかったし、こうするようになってからは、「絶対にラストは言わないで下さい」という謳い文句の映画は、作品として駄目だと今まで以上に思うようになった。そういう奇をてらった内容というのは一度観れば十分になってしまい、普通にしているのが一番良いということが裏付けられるだけなのだ。

 これは静止画においても同様であり、結局、名作の構図は決まってくるし、変に意固地になる必要はないのだ。心持ちを軽くして、本当に伝えたいことだけを想って作品と向かい合えば勝手に作品は創られていく。

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快楽主義者

2010.10.17

 「ハートロッカー」を観た。冒頭にでてくる「戦争は麻薬である」という文句に納得しながら観ていた。当事者以外の生物が犠牲になることから僕は戦争に賛成できないが、この文句はいわば「死を身近に感じる体験は麻薬である」ということだろう。

 「今日死ぬかもしれない」というのは誰にでも当てはまる常識だが、油断してしまえば先のことを見てしまう。この常識を忘れているときというのは大抵、欲にまみれているときであったり、何かに執着しているときだ。

 座ってなんかいられない、会話なんてどうでもいい、ただただ身近にまでやってきた生死の感覚だけと向き合ったときのヒリヒリとした快感。そんな時はどうしても笑みがこぼれてしまうし、これを感じてしまえば、日常の大半のことはどうでもいいものになってしまう。文明社会での約束事なんてものは、「今日死ぬかもしれない」という常識の逆を求めた結果なのだから突き詰めればボロが出て阿呆らしくなるのは当たり前だが、豊かな社会を求めた結果、軽鬱もどきや自己啓発が流行るのだから皮肉にもならない。

 作品を創作しているときには生死の感覚を得やすいが、もっともっとと欲してしまうのは快楽主義でしかないのだろう。そう、もっとヒリヒリしたいのだ。

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調べもの

2010.10.16

 久しぶりに国会図書館へ。ネットで調べものをするのが当たり前の現代だけれども、専門的な事柄を調べるためには論文を読むのが一番だと思われる。論文は現代日本語の基本で構成されており、巻末の引用文献/参考文献から著者の思考の系譜を参照しながら、自分の調べたい事柄を辿ることが容易に出来る。

 なので、僕は論文を読むことを勧めているのだが、どうやら敷居が高いようなのだ。大学卒なら卒業論文やレポートでお世話になるはずなのだが、卒論を書かなくても卒業が出来たり、背景がなくても受理してしまう大学も増えていると噂に聞く。

 いやいや、国会図書館いいですよ。食堂もけっこう美味しく稀にラッキーがあるし、古い週刊少年漫画もあるし、調べものをしている女性って綺麗に見えるし・・・マジです!!!

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美と結びつけてしまう性質

2010.10.7

 作品を創作すれば、必ず真逆の性質の作品も進むことになるのは昔からだった。

 性質というのは全てにあり、全ての人間が持っているものでもある。そして、人間を考えるとき、現代人から藝術が必要のないものと思われていたり、それほど重要なものとは思ってもらえていないことを考える。仮にそのような人間しか今後生き残らなくて、数在る名作や美術館の全てが廃棄されたとしよう。そして、栄養なども栄養剤で摂取しても十分すぎるような状態になり、何もしなくても全くの無菌で埃も生まれない社会になったとしよう。そのような社会なのだから、合理性の高い動きだけを求め、機能だけを追究した社会でもあるだろう。

 多くの人達が「そんな社会はつまらない」と否定するだろうが、僕はこのような社会になることは否定しない。

 なぜならば、栄養剤を摂取する際の動作にさえ、「美」を見出そうとしてしまうのが人間だからだ。極度に合理性を求めた人間しかいないということは、不合理な動きをしないということであり、スポーツでもそうであるように、より合理性の高い動きは良い結果をもたらすとともに、観客の目を釘付けにする。彼らの体や動作の美しさが、同時に結果をもたらしてもいるのだ。しかし、人間はどんなに頑張っても完全な動きが出来ない存在でもある。だからこそ、よりよい動きをしようと「努力」をし、「追究」をする。その姿を他者が見て、魅了される。つまり、「美」を感じ、藝術の種が生まれるということだ。その後は、予測がつくだろう。

 人間はどんな社会になっても、「美」から逃れることは出来ないし、藝術と無縁でいることなど不可能なのだ。だからこそ、藝術を必要の無いものと思うのは、人間が生きる上でも勿体ない生き方をしていると考えられるのである。

 そして、人間について考えるとき、このように「美」や「藝術」と自ずと結びつけて考えてしまうので、僕はこれを仕事としているのだ。人間として生きて死ぬのであるから、何と結びつけて考えてしまうかが、その人の性質なのだ。

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粉雪と黒炎

2010.10.4

 さきほどまで白盤(http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/)のトップページの作品を進めていたら、広がっていく様が見て取れたので驚いた。粉雪のように煌めき、立ち位置を変えれば光の加減から見える線が異なる姿は、作品のサイズを越えて黒い炎が移っていく様は美しいとしか言えなかった。白い雪が掘り起こされ、光を纏い、黒い炎を立ち上がらせる。そんな中でも人は眠り、未来を創るために力を蓄えている。

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10年目

2010.10.3

 作品のテーマに合っている情報というのが必ず手に入るというのは「ラッキーだな」と思うとともに、その分野への嗅覚が鋭くなっているのだろう。

 話は変わり、高校の時から履いているアイリッシュセッター(RED WING)が、おそらく10年目に入っている。オールスターは10年目で代々木公園で遊んでいるときに靴底が抜けてしまったが(ちょこちょこ手入れしていたのに・・・)、セッターはソール交換ができるから大丈夫。むしろ、ソール交換代の方が既に購入代金を越えていると思う。山に行くのも、旅に出るのもこの靴と一緒だった。雪も泥も絵具も経験している靴だ。

 しかし、10年目になるとどうしたものか、情というよりも一種の念のようなものを感じるのだ。足の存在感が大きいというのだろうか、靴というよりも足が大きくなるような感じがしてしまう。

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