Archive for 2010.3

一周年おめでとうございます

2010.3.30

 今日から開催の企画ギャラリー・明るい部屋「一周年記念、明るい上映会」にて、スライド3点と映像1点で参加させていただいております。

 それで、新作予告「希望の光」内で作品サイズが約230×400cmと出てくると思うのですが、既に約235×830cmになっております。何故、短辺が伸びていかないかというと、アトリエのサイズがそこまでだからです。長辺の方は巻いていけば伸びていくのですが、短辺の方も伸ばしていくと長辺が巻けなくなってしまうのです。このことからも理解できるかと思いますが、現在創作している「希望の光」は、かなり単純明快な作品です。ちなみに「希望の光(仮)」となっていたのは、タイトルを「世界地図」、「パンドラ」、「生命の象徴」などと迷ったからですが、「希望の光」でいくでしょう。

 スライド3点も何も聞かなくてもいいぐらい、シンプルな作品になっていると思います。

 初・映像創作の機会を与えて下さった明るい部屋の皆さま、ありがとうございます。そして、一周年おめでとうございます。

 エグチマサル

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歩くのは考えるのに効果があるらしい

2010.3.28

 額(ひたい)に鈍器で殴打されたような傷が・・・不注意です。

 知人たちが参加しているのが多かったので、今週はよく展示に行きました。もうそんな理由でしか美術展示にいかないのはどうなのかとも思いますが、理由は前回にも書いたのと今回ので分かるかと。

 BankART内の3つ(東京綜合写真専門学校研究科展、関東学院大学人間環境デザイン学科展、みる、つなぐ、ひらく展)、明るい部屋、クンストバウ東京、パレットクラブ、ガーディアン・ガーデン、国立新美術館(アーティストファイル展、アンデパンダン展)。

 一番良かった(網膜にも脳裏にも精神にも印象に残ったもの)のは、関東学院大学人間環境デザイン学科展だった。気になったものは卒論も拝読し、この展示がトータルとして「人に見せること」を踏まえた上で制作し、展示をしていた。「デザインなんだから当たり前」というのは笑えない言い訳だが、そう思っている人がかなり多いのではないだろうか。

 ただ、「なんちゃらナイト」と称した一夜限りのイベントとして、夜まで美術館を無料開放(一部除く)していたのは、イベント目的で集まった「普段は美術を観ませんよ、私」の人達がたくさんいてよかった反面、「アートってわかんないよね」と言われるのだろう作品達しかなかったのがとても残念であった。

 「本当に良い作品だけをみせていこうぜ」っていう志のある人間が多ければ、この業界まだまだ良くなるはずだ。

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いつ死んでも大丈夫

2010.3.16

 最近、全てが大丈夫だと気付けた。真理に気付いたときのようにパッと開けた感覚だ。

 例えば、今も創作が続いているのだけれども、もしも今何らかの理由で創作が出来なくなっても大丈夫であり、その究極は死んでしまったとしても大丈夫なのだ。そして、私の死後、誰かがこれらの作品を継いで創作することが「本当にやりたいこと」であるのならば、継いでもらっても大丈夫だし、そんな人が現れなくとも大丈夫。

 それと、作家であれば展示と繋がっていくと思われるのだが、作家(作品を創る人)というのを突き詰めていった結果、展示をしなくとも大丈夫となったのだった。むしろ、そんな状態で展示に手を上げてくれる人の方が、展示や作品への考えを話していくとより生産性の高い結果になるような計らいをしてくれる。それは私も同じであり、展示ということになれば、どんなに些細なものであってもその展示で最高のパフォーマンスを発揮できるように考える。ということは、展示をしても大丈夫だし、しなくても大丈夫ということだ。

 これは他の事柄もそうであり、何かを手に入れなくても大丈夫だし、何をしなくとも大丈夫なのだ。我執(執着、こだわり)が無い方が心を真ん中に持ってくる事が可能となるのは本当だった。だから、他の人の展示を見なくとも大丈夫だし、見ても大丈夫、空を見たり、風の匂いを嗅いだり、石を拾って触ったり、草花の擦れる音を聞いたり、食い物を食べたりすることと何ら変わらない。心を真ん中に持ってきた末に、感覚や思考が高くなったと言うべきか。

 むしろ、どんな大御所の展示であっても中堅であっても若手であっても、中途半端な欲望が見て取れる。その反応は、専門性からは遠い一般の人々の方がダイレクトに反応を示してくれる。それは、さもしい自己顕示欲、自尊心、自己優越感ではないのかと。しかし、この中途半端な欲望がなくなればなくなる程、実は、強く圧倒的な作品を表出することが出来るのだった。このことに気付くと、自ずと心身は真ん中に持ってくるようになる。すると一層、強い作品と出会うことになってくるのだ。

 これらのことは他の業種にも当てはまり、いつも言っているように、「人はいつ死ぬかわからない」→「今の一瞬しかない」→「本当にやりたいことをやる」→「本当にやりたいことをやるようになったら、人は一生懸命に今を生きる」→「一生懸命に生きている人は考えることをしている」→「考えることは人間という種族を真っ当に生きること」→「真っ当に生きている人は、自分のためにもなっているし、他人の役にもたっている」→「真っ当に生きることは真っ当に死ぬこと」→「人はいつ死ぬかわからない」。大まかに流れを書くと、こうだろう(途中に安いこだわりがなくなったりが表れてくる)。

 つまり、先のように書いていると「やる気がない」と言われてしまいそうだが、実は、「人はいつ死ぬかわからない」という時代も文化も超えた当たり前のことを理解し、今を全力で一生懸命に生きるとこうなるということなのだ。そうすれば、今、死んでも大丈夫だし、生きていても大丈夫ということになるのだ。

 そう、「いつ死んでも大丈夫」、これって本当に凄いことだなぁとつくづく思い、そんな私は今日も全力で生きるのだ。

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子どもの国から考える

2010.3.15

 最近、ソフトの使い方を覚えている。覚えるにつれて「何故これが必要とされるのか」が分かってくるとともに、「あれとこれをくっつけることが出来たら使い勝手がいいよなぁ」と思う。しかし、「起動が遅くなるよなぁ」とすぐに思える。

 話は変わり、子どもと遊ぶと考える速度が上がってくる。友人とも話していたのだが、子どもと遊ぶとルールが目まぐるしい速度で変化する。その変化は大人達からすると「ずるい」と言いたくなるような変更なのだが、子どもの側からすると筋が通っているのだ。そこについていった方が楽しめる事もあって、「ずるい」とは言わずに「なるほど、じゃあ、それでいこうか」という方向になると、相手(子ども)の言っている理不尽なルールについて考えることになるのだ。目まぐるしい速度で。こういうことをやらせてもらうと、子どもは師匠にあたるし、そうなれるのは本人の向上心の問題である。

 しかし、いつも考える事がある。もしも「子どもの国」というのが存在したのなら、戦争はなくならないだろうと。先のようなルール変更は子どもの側からは筋が通っているが、全ての子どもが当てはまるということではない。そして、そこでは意見の平等性は首を傾げるものだ。バシバシとルールを変更する者がいたら、それに異を唱える者もいるだろうし、なかなか言えない者もいる。それでも構わないだろうが、大人になるにしたがって「自分の考えを述べることの重要性」に気付いてくるし、それは「本当にやりたいことをやることの重要性」や、「一生懸命生きることの重要性」、「人はいつ死ぬか分からないということの重要性」にも気付いてくる。けれども、そこは「子どもの国」。気付かないまま、つまり、耐える者は一生耐えることになるわけだ。

 上記の重要性に気付いていない、言い訳ばかりの大人が多いのも現代だろうが、そんな大人達なら「耐え続けるストレス」の結果、自分の肉体や精神がどうなるかは一層わかるのではないだろうか。つまり、「子どもの国」というのが本当に存在したのなら、破綻はするし、無駄な血が流れるだろうと予測ができるとともに、先に挙げた重要性を分かったフリをして、考える事を放棄し、言い訳ばかりをしている大人達も、子どもだと言えるのである。

 しかも、そんな大人達に通じる言語表現をしなければ解釈力・語彙力の低さを棚上げして「わからない」の一点張りになり、通じる言語表現をすれば「わかったフリ」をするのだから厄介だ。しかも、数が多い。

 けれども、先日嬉しいことがあった。それは、大学時代からの友人の1人がそれに気付いたということ。「わかった(フリ)」ではなく「わかってきたんだ」と彼は言った。そして、「始めの一歩を踏み出す勇気の重要性」を話してくれたのだった。彼と2人で話したのは以前にもあったが、先日の3時間ほど有意義だったことはなかったし、「今の一瞬一瞬を一生懸命生きる事の重要性」に気付いた彼の存在はとても嬉しいものだった。

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虫も活発、私も活発

2010.3.5

 春を通り過ぎた陽気だそうで、虫たちも活発に働いていて、窓を開け放して作業していたら入ったり出たりしていた。先週から頑張っていた(?)お蔭で午前中には全てのことが終わり、郵便がてら散歩(シルク・エビス)→ベランダで読書、空を眺めながらの考え事・・・。このように書くと、悠々自適なオフの日とでも言われそうだが、オフだろうとオンだろうと結局は「感じて、思って、考えて」に繋がっていくのでオンの日と何ら精神的には変わりがない。

 それと同じで、世代や社会や法律を批判したり、カルチャーに左右されたり(されていない体を装って「流行がわからない」と言ってみたり)、している人間が多いのが現代とも言えるし、そのことはいつの時代もされてきたのかもしれないが、言える事はただ1つ、そのような批判をしている者は「感じて、思って、考えて」の能力が低く、自己の能力の低さを棚上げしているだけだ。世代が悪かろうが、社会が悪かろうが、法律が悪かろうが、結局はそれに左右される人間かどうかということだ。それは、どれだけ言葉を考える事が出来るのか、どれだけ人間を考える事ができるのか、どれだけ自分のしている事を考える事が出来るのかに由来する。たとえば「一般常識」。大抵の場合、この言葉を使用して話されている事柄は「現代日本常識」であり、「一般」とはほど遠い。「より普遍性が高く、当たり前の事」が一般常識なのであって、それを突き詰めていくと「生きて、死ぬ」ということに行き着くほかは無い。「それでは社会でやっていけない」と言い訳をする者が現れるが、その社会のことをその者は「良い社会」だとは言わない。しかし、「一般常識」を「現代日本常識」と分かっており、かつ、行動している人は、その行動の先に人間を良くしようと明確に考えており、そんな人の言葉や行為は強い。

 しかし、そんな人間が少ないのは事実だろうが、たとえ地球上で私一人がそうであったとしても、先に述べたように、結局は自分がそのような人間かどうかということなのだ。その先に死が訪れようと、遅かれ早かれ生物は死ぬのであるから、胸を張って全力で「感じて、思って、考えて」生きて死のうぞ。

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缶詰?いやいや、展示馬鹿だったのです

2010.3.1

 先週、のんびりと缶詰状態になっていたお蔭(誘われるままに呑みに出掛けたり)で、いくつかの案件が漸く今週中には出来るかなという状態へ(出来てなきゃいけないんだけどね)。

 そのどれもが、いわば「おまけ」的要素の強かった案件たちだったのですが、「充分、強さのある作品として展示できないか」という方向へ自然と意識が向かってしまうあたりが、「展示で育ってきた人」ということを如実に表していたような。ある会場で久しぶりにお会いしたUさんに感謝です、やり方がよりシンプルになりました。

 合間に観た映画、「フロスト×ニクソン」、「マルタのやさしい刺繍」、「スラムドッグ$ミリオネア」はどれも正攻法の作り方ですが、良かったです。「フロストー」は人間の心の機微描写によって動かないセットにも関わらずとても豊かに動かされた映画(やはり悪人同士で会話した方が楽しいものです)、「マルター」はパッケージからも女子映画として売っているのだろうし、そう観る人達が多いのだろうが、女子映画として観たら勿体ない映画(「バクマン。」を薦めていたら年齢を言い訳にしている者がいたので。ただ、歳を重ねれば重ねる程、吸収率は悪くなるし障害も多くなりますが、全てはやる気と努力次第)、「スラムドッグー」はこれこそ「1つのものに向かう強さ」と「人生って実は繋がっているよね」という私がいつも言っている事柄が出ている映画(最後は笑ってしまったが、テンポが良いんです)。

 一応、缶詰状態で創作していたんですけどねぇ。

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