Archive for 2010.1

本当にやりたいことをやる覚悟を持てば誠実になる

2010.1.31

 先日、結婚式に出席していた。披露宴にも出席していたが、一貫して、「エグチマサル」表記であった。少し関わらせて頂いたからという理由もあるし、新郎新婦が話の分かる人達という理由もあるが、一番の理由は「覚悟」である。

 こんな表記で出席していると「調子にのって・・・」と悪く思われる可能性が全くないとも言えない。しかし、藝術業とは縁のない人達と話をしても「普段何をしているか」という事は必ず尋ねられ、そうすると軽くだとしても必ず藝術についての話もすることになる。現代日本における一般人のほとんどは藝術業とは無縁であり、「藝術って必要ないじゃん」などと思われているのもわかっている。だからこそ、取り繕ってセールスするのではなく、真摯に自分のしていること、考えていることを話すことになる。

 すると不思議な事に、カタカナ表記であることを訝しく思った人達も、その名前を名乗っている者への評価を好転してくれたりし、そしてその時には私がどんな表記で名乗っていようなどと気にしなくなっているのである。

 つまり、最終的に人が他人に抱く印象というのは、その人の名前ではなくて、その人がどんな言葉を話しているかなのだ。加えて、美術家であるのならば、関わった造形物がなければ真の信頼を得る事はない。ちなみに、恥じる事はなく、私はこのことを親族にもし続けている。

 最後に、私が一般の人々の前にも藝術家として現れるのは、藝術が普遍的な美を追究する領域であり、全ての人々と向き合うということであり、それをするということを、私が本当にやりたいからだ(「やりたいこと」と「やるべきこと」については以前にも書いたのでそちらを参照して頂きたい。「本当にやりたいことは、その人のやるべきことになっている」このことは再び後日に)。

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映画から考える

2010.1.26

 映画「ミリオンズ」を観ていた。「子ども達に堂々と見せられる映画を作りたかった」とダニー・ボイル監督の弁だけあって、「善いことって何?」ということに始終し、お金の出所に戸惑いながらも善悪と向き合い進んでいく主人公の物語。単なるファンタジーとして捉えられたり、「お金持ちならあぁいう終り方のようなことをするかもしれないけれど」と思いがちだけれども、実はそうではない。

 全ての善悪というのは本人の中にあるものであり、映画に出てくるような、もしくは学校を建てたりとニュースに取り上げられるようなことだけを指すのではない。例えば先日、K駅に向かう電車の中で、お菓子の袋の切れ端が落ちていた。それは、一直線に切り取られた濃い赤色のゴミだったので、白っぽい床には当然に目立っていた。僕はそれを拾い、K駅から友人の家に向かう途中にあったコンビニのゴミ箱にそれを捨てた。僕が拾わずにあのまま電車の中に放置していても掃除屋さんが掃除をしてくれていただろうし、もしくは別の誰かが拾っていたかもしれない。けれども大事なのはそこではない。

 自分がそれをするかしないかだ。何故なら、事の善悪というのは他の何者かに因って規定されるものではなく、自分自身に因って生じてくるものだからだ。「他の誰かがする」という者は、絶対にしない。他の要因(国家、法律、他人)に求める人は、法律と道徳を混同していたり、道徳と道理を同じものだと思っていたりする。それ故、理解したような気になってしまう。社会を理解したように思ってしまう。悪いことが起きると社会や会社、他人のせいにしてしまう。義務や責任という言葉を他者に向け、権利という言葉を自分のために使用するが、他者に向けられた義務や責任という言葉に因って、自己にも義務や責任が生じてしまったことに気がつかないような人達である。それもこれも「誰かがする」という善い行いの放棄から始まっている。それは即ち、「考える」という人間の最大の特徴的行為を放棄していることにもなっている。善悪の生じる源が自己に起因するものならば、その自分自身は「何が善」で「何が悪」なのか、そして「善とは何か」、「悪とは何か」について考えなければ行いに転じることは出来ないのだから、考えることが必要になってくるのだ。

 こういうことというのは僕の関わる作品や文章にも表れている。人間はどんな劣悪な環境でも成長することが出来る。けれども、発信する側に立つ以上、手放しで成長を促す、もしくは特徴を伸ばす発信をする必要があると考えている。整然としたものだったら整然さを、清廉さであれば清廉さを、激しさであれば激しさを表す必要があると考えており、敢えて反面教師的に発信する必要はないと考えている。むしろ、反面教師的に見せようとしている作品群や人の振る舞いは、見ていても純度が低い場合がほとんどである。純度を高めることを望めば望むほど、そのものの性質を見極めようと洞察力を高めようとするし、その性質を発揮させながら、どうすればそれに関わった人達にとっても最善となり得るのかと考えることをするものだ。

 だからこそ、手放しで善いものというのを僕は追究しているのだ。

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場所と企画

2010.1.22

 広尾の旧フランス大使館で開催中の「No man’s land」と森美術館の「医学と芸術展」に行っていた。

 「No man’s land」の方は予想していたよりも広く、数が多く、しかし、廊下や1つ1つの部屋に作家が割り振られていて学園祭のようだった。(一般の人達が多いようで)混雑も合わさってその要素が高まり、いよいよ作品よりも人と触れ合うことの方が印象に残る。
 入場したらトイレに行こうと思っていたが場所がわからず、受付の方も場所がわからず、すると後ろから来場者のおじさまが教えてくれたり、綺麗な女性がイヤリングを落として気付かなかったのでそれを拾って渡したり、いつのまにか来場者に作品の位置をずらされていた(触られていた)小品物体の出展者が、その憤りを他の出展者に吐露している現場に遭遇したり(あの〜、鑑賞しに来たんですけど・・・)、来場者に服屋のような接客をしている出展者がいるなぁと思っていた矢先に「これ一体2000円なんですよぉ」と商売を始める現場に遭遇したり(君は何者だ?)、そして、作品として良かったなと思うものは暗闇の中にあるデジタルペイント(アニメーション?)の所謂、他の場所でも展示可能な作品であったりと、「展示をすることと企画を立てること」を考えるものになっていた。関係ないけれども、「ノーマンズランド」という映画のことも思い出していた。

 「医学と芸術展」では、博物館+美術館のような作りで、「なるほど」と思うようなところもあり、昔観た「人体の不思議」という展覧会を思い出していた。観察、調査、考察が癖なので、医術に関わらず何かを進歩させてきた流れというのはとても尊いことだと思ってしまう。しかし、医術の場合、単なる生命延長にすがる人間の形骸化は本末転倒だと考えてしまう。閑話休題、こういう企画の場合、医術知識と作品のバランスが難しいのだろう、展示を観ている間、美術館の役目というのを考えていた。作品としては、盆栽風のものが展示場所も合わさり、一番ウィットがあったように思われた。

 奇しくも、どちらの展示も場所に関わることを考えることになっていた。

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当たり前のこと

2010.1.20

 どうやら僕は楽天的らしい。

 けれども、これから挙げる3つのことを本当に理解するとそうなってくるものだ。

1、人は生まれて死ぬ。絶対に。
2、人はあっけなく死んで、あっけなく生き残っている。
3、今のこの瞬間の数珠つなぎが時間となり、日々となり、過去となり、未来となっている。

 これらがわかると、今を一生懸命生きるしかなくなり、一生懸命生きるためには正直に生きるしかなくなり、その結果、病気になろうと死ぬことになろうが、まぁ、悔いることはなく、その瞬間も一生懸命考えて行動する、つまり、一生懸命生きているのだ。しかし、これらの言葉を大抵の人は理解するのだが、その理解の仕方がほとんど表層的でしかない。しかも、聞こえが良いのだろうか? ひどく納得したような感嘆したような体を装うのだけれども、相変わらず「死」を拒否する発言を繰り返す。「死にたい」のではない、「生きたい」のではない、人間として生きて死ぬことを全うしようとするだけなのだが、そうするとやはり「精神的に向上心を持つ」ことに自然となっていくものだ。

 加えて、最近ドラマで「正直に生きる」みたいな趣旨のものが何本かあるらしく、この先どう進んでいくのかは知らないが1本は確実に間違っている。僕がよく言っている「やりたいこととやるべきことの違い」や「我が儘と信念を通すことの違い」でこれらを勘違いしている人がよくああなっているのだ。そして、こういう話をすると必ず現れる「それじゃあ社会は回らない」と述べる人の頭の中にも、こういう勘違いの人が登場しているのだろう。つまり、さも当然のように通俗的なお説教をして下さる人ほど勘違いをしているのであり、そのような人ほど「自分の死」を本気で受け止めておらず、「自分は死なない」と思っている。いや、思ってもいないのだろう。

 こんな話ばかりをしているからだろうか、僕は「浮世離れしている」とよく言われる。いや、しかしね、浮世というのは・・・。

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何を買うというのか?

2010.1.19

 「他人様のCO2排出量を買う時代ってどうなんだろうか」と疑問に思う。それこそ「ただより高い物はない」という人間にしか出来ない価値基準は通用しないだろうし、全てコンピューターで金銭が決められ、その金銭の高低で価値の高低が決められてしまう時代が来るのだろうか? 既にそんな時代だとも言えるし、完全にその時代に進もうとしている今、私たちがしていることなど考えることが馬鹿馬鹿しいことだろう。そして、そんな時代の富裕層が教育を受けたとしても(そもそも「教育」が残るのだろうか?)、考える力を得ることが出来るのだろうか? 情報の獲得と整理で次に進むなんてゾッとするが、それに「ゾッとする」ということもわからないような人間に育つのだからそれはそれで幸せなのだろうが、しかし、「幸せ」という価値基準を考える力が残されているのか?

 こういうことへの懐疑的な考えは、政治家が危機を唱えるよりも昔から、文化人の中では当たり前に作品化されて発表されてきた。それはリメイクされたりと今の時代にも通用している。「政治的決定権のある国際会議の場に、政治家ではなく、各国の文化人が揃ったら面白そうだなぁ」と思いながら、胃炎で倒れていた。

 人生初の39時間睡眠。起床と同時によく働く性質なので、目覚めても痛みと寝ぼけで朦朧としながら考え事をしていたら再び眠りにつく経験は面白かった。それと自分の自律神経の強さにも驚いた。過去、帯状疱疹を放っておいて大変なことになってしまった時を思い出したが、あの時は面倒臭さが立ってしまってちょっと違ったなぁ。雪国の無人駅で一晩過ごさなければいけなかった時の逆バージョンに近かった・・・のか?

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フェア

2010.1.11

 「おいしいコーヒーの真実」という映画を観た。そこではコーヒーの原産国の人々が低賃金で労働し、大企業が私腹を肥やすという資本主義の形が描かれ、フェアトレードを訴えていた。この映画を観ながら、僕は日本における非正規労働の問題と同種のものを感じていた。後者では、同一労働・同一賃金が大きい問題となり、海外の資本主義国家の労働者は同一労働・同一賃金を当たり前と思うらしい、というか私も当たり前だと考えている。しかし、双方において言えるのは、自分の利権ばかりを唱えていては何も変わらないということであり、人々の意識を変えていかなければ本質は何も改善されないということだ。

 何故、自分の利権ばかりではいけないのか? 大国が自分の利権ばかりを守ろうとすると必ずそのツケが大本にやってくる。そして、原産国にやってきたツケはその人々の教育を奪い、お金になるという理由だけで麻薬栽培に手を染め、抜け出せなくなる。そして、その先にあるのが戦争だ。結局、他の生命が無惨に殺されてしまうだけであり、それはそのまま人々の「考える」という可能性を奪い、他の生命体が「生きる」という可能性を奪うことになっている。

 そして、この「自分の利権だけを守る」というのは先に挙げた日本の問題にもあるようだ。いつの頃か忘れてしまったが、派遣村のドキュメンタリーが放送されていて観ていたら、やはり、社会を批判し、会社を批判し、取材人(←人間だ)との会話の最中に配給のおかわりに向かうという場面があった。そのような人達だけではないだろうし、人は衣食住のどれかでも著しく欠けてしまえば考える力を失うというのは頻繁にある。加えて、彼らの給与を上げるためには正社員の給与を下げざるを得ないのだが、「頑張って正社員になったのだから・・・」や「今まで長いこと会社に勤めてきたのだから・・・」と頑張り(聞こえの良い言い方をすれば「人間味」というところだろうか)を主張するのだが、こと「年金問題」になると「自分はもらえるのかしら」や「将来の自分のため」に年金を支払っていたり心配していたりする場合がほとんどだ。つまり、前者では人間味を主張して自分の利権を守っているにも関わらず、後者では(本来は他人のために支払うものなのだが)ちゃっかりと自分の心配をして問題にしているのである。

 なんということだ。あの映画で登場していたフェアトレードと似たような問題ではないか。結局は強い立場にいる者が自分の損得ばかりに気を取られ、ほんの少しの損を嫌がるばかりに弱い立場にいる者が人間らしい生活が送れていないということだ。

 そのような意味で「おいしい—」で登場した、生産者達の会議で「俺は自分の服を売ってでも、子どもの教育のために学校を建てたい」とおっしゃっていたり、特典映像で「消費者の権利はあるけれど、同時に消費者には義務と責任がある」と伝えていたりしていた場面が印象深かった。このことは映画を通しても特典映像を通してもずっと根底にあったように思われ、つまり、どちらも「教育」ということが必要になってくるのと、「人が人として当たり前に生きていけるような社会を目指している」ということだ。

 そして、そんな社会を可能にするためには、私たち一人一人が意識的に物事を考え、本当に良いものを選んで生きていくという生き方である。

 私のような藝術業の人間がそのようなことを述べていると、笑われたり、「偽善者」、「政治家になれば」と揶揄されたりするが、私は話し続ける。何故ならば、そのことによって変わってくる人々がいるし、「自分だけじゃない」と勇気をもってくれる人々がいたら嬉しいからだ。そして、それが私にとって嘘が無い生き方になるからだ。とっても単純な理由である。

(2010年1月11日 18:40)

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単純な理由

2010.1.6

 数年前には考えてもいなかったが、今では大判出力をするのが当たり前となっている。作品も1億ピクセルを超えるのは当たり前。1ピクセルを1人と考えると、「この1枚に日本人の人口ほどが密集しているんだなぁ」としみじみ思う。

 また、デジタルと言ったとしても、出力の度にちょいちょい手を加えるので、結局一点ものになってしまっているし、大判プリンターの稼動姿を見ていると一列一列少しずつプリントされているので、全てがアナログに思えてくる。

 そして、出力が終ったプリントを目の前にすると、全ての通俗的な事柄が頭から消えてなくなるし、視覚だけではなく全ての感覚が目の前の1枚に持っていかれる。これは、先日の姪と会っていた時や、圧倒的な自然と対峙した時に抱く感覚と一致する。ミメーシスによる制作ではなく、創造しようとしてつくられた作品がそのような性質を持ってくれるのはとても嬉しいし、藝術をやる理由が、純粋にそこにあるのだろうなと深々と思う。

 「やっぱり、作品は創るのも観るのも楽しいね」って思った。

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「感じること」と「考えること」

2010.1.5

 仮に人類が私一人だけであったら、私は作品を創る必要が無い。藝術と哲学と宗教が同じものを対象とし、優れた藝術家には哲学性と宗教性が表れてくるということは以前にも述べた。加えて、優れた作者は「美しさを判断する能力」と「それを具現化する能力」が高いことも述べている。しかし、「具現化」の能力とは作者以外の人々が存在してはじめて必要とされる能力であり、作者だけが存在しているのであれば、「美しさを判断する能力」のみが高ければ充分なのだ。つまり、作品を創るということが、とても社会性のある行為だと言えるのである。

 ここで、「藝術と哲学と宗教が同じものを対象としている」と述べたが、それは何だろうかという疑問が生じてくる。しかし、それが「真理」であり、真理が「物事の本質である」ということも既に述べている。けれども、そこから先は少し言い方を変えて話を進めていこう。

 「物事の本質とは何か?」ここから対象は多岐に渡る。私たちは人間であり、社会が人間によって成り立っており、全ての社会物は人間から始まっているのだから、「人間」ということから考えてみることにしよう。人間とは何か? 人間とは言わずもがな、動物である。動物であるということは生物である。生物であるということは、生きて死ぬ。生きることと死ぬことが避けられないのは全ての生物において言えることであるが、では、人間とその他の生物との違いは何だろうか? それは「考える」ということである。「感じる」ことから「考える」ことが出来るようになり、そのお蔭で、文化も政治も経済も発展してきた。もしも他の生物と同じように、人間が「考える」ことが出来ない生物であったら、他の生物と同じように何年、何百年経っても同じことしか出来ないでいただろうし、生活様式が変わることもなかっただろう。縄文時代の人間と現代人が本質的には同じだと言われる中、多くのものが変化してきたのは、人間が「感じて」、「考える」ことが出来る生物だからだ。

 だからこそ、少しでも「変だな」と違和感を感じたり、「善いな」と快を感じたりしたら、そこから考えることが必要なんだ。ということは、「社会では生きていけない」や「現実的には・・・」などと大人ぶって考えることを放棄するのは、人間という動物(生物)を真っ当に生きているとは言えない、ということが分かるだろうか? 真っ当に生きていないということは、中途半端に生きているということだが、他の動物ではどうだろうか? 考えることが出来ないとされているだけで、実は考えることが出来ているかもしれないし、そもそも彼らは彼らの種族として真っ当に生きて、死んでいっている。それ故、中途半端に生きるということも人間にしか出来ない所行だと言えるが、そんな中途半端に生きている人間にさえ、真っ当に生きて死んだ生物は食料になっているということを理解出来るだろうか? これだけでも「いただきます」や「ごちそうさま」と言うことについて考えることが出来るし、食物を味わう(味を感じる)ことから、食物について考えることが出来、そこから自分が生きているということについて考えることが出来る。そして、そこから自分が死ぬということについても考えることが出来る。そんなところから、大人ぶって諦めたり、妥協したりして考えることを放棄した状態からは既に抜け出せているね。つまり、中途半端な生き方からは脱しているということであり、中途半端ではない生き方ということは「一生懸命に生きている」ということだ。そんなことが出来るのも、「感じて」、「考える」ことが出来る人間だからなんだよ。「感じて」、「考える」だけでいいなんて、とっても単純で簡単だと思わないかい? 後は、浅はかに気取って人間として中途半端に生きるのか、人間としてたくさん「感じて」、たくさん「考えて」一生懸命に生きるのか、君が選ぶだけだよ。

(2010年1月5日 9:17)

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お正月

2010.1.2

 あけましておめでとうございます。

 姪っ子と会ってきましたが、「目に入れても痛くない」というのは本当ですね。

 子どもと出会ってつくづく思うのは、「今の時代が悩んでいることをこの子達の時代には残したくない」ということ。それは、その子達の次の時代や、次の次の時代、最終的には人類が終る時にまで考えてしまう。その子達の時代に善いものが残っていて欲しいし、善き人が今よりも多く存在して欲しいのだが、そのためには今の時代においても本当に善いものだと通じなければならない。こういうことに自然と考えが及んでしまうから、僕は藝術を選び、哲学を選んでいるのだ。むしろ、選んでいるというよりかは、そのような考えや作品が、哲学や藝術だと言える(わからなければ辞書を引くことを勧める)。

 作品が人の手に渡るときには、「善いことをしてください」ということを思い、伝えている。誰かが他の誰かに善いことをすれば、再び他の誰かが、また別の誰かに対して善いことをし、この「善いことの連鎖」によって人は善き人になっていく。そして、善き人が多ければ、社会は善き社会になっていくものだ。何故ならば、はじめに社会があって人間がいるのではなくて、社会は人間がいてはじめて成り立つものだからだ。

 では、「善いこと」とは何だろうか? 人はまずここで悩み、考える。つまり、考えることをし、善について考えるということは悪についても考えることであり、それは即ち、人間についても考えるということだ。だから僕は自分に対しても、他人に対しても善いことをしようとするのだ。随分遠回りな方法だと思われるかもしれないが、実は一番の近道だと考えている。

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