Archive for 2009.9

200円の価値

2009.9.30

 初めて「iTunes store」を使った。

 と、いうのも、誕生日プレゼントとしてギフトカードをもらったからだ(今年、僕は何度誕生日があったのだろうか)。このギフトカード、贈るときに世界エイズ基金に寄付されるシステムだったらこんなにやきもきしないで済んだのに・・・と思いながら、微々たる量でも使用する人数を考えれば多額になるのだろう。企業がこういうシステムを持つのは良いことだが、それを宣伝材料として使用する企業もあるのだろう。娯楽が寄付になるというのも、何か複雑な気持ちがするが、お金だけを差し出す日本国民にとっては良いシステムなのだろう(現にそういう批判もあるみたいだしね)。ビールを買う時も、そのような広告が入っているものを選びがちになっている(美味しい銘柄だから良いけどね)。

 「寄付をしている」という感覚よりも、「僕たちが感じることの出来ない痛みを持っている人がいる」っていう感覚を持ってから行動する方が、大切なように思える(四の五の言っている場合じゃないっていうのも分かるんだけどね)。

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現代写真倶楽部 第1期 制作展

2009.9.28

以前から告知をしていますが、

9月29日(火)〜10月4日(日)まで、
企画ギャラリー・明るい部屋にて開催される
『ワークショップ現代写真倶楽部 第1期 美術的写真論 制作展』に参加します。

この4月より始まった企画ギャラリー・明るい部屋ワークショップ「現代写真倶楽部」に
エグチマサルは特別講師として参加させて頂きました。
展示では、ワークショップを通して制作された共同作品と、個人作品を合わせて展示いたします。

また、9月30日(水)20時〜22時にかけてオープニングパーティーも催されるので、
そちらの方にも是非、御参加ください。

どうか御高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

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企画ギャラリー・明るい部屋
ワークショップ「現代写真倶楽部」 第1期 美術的写真論 制作展

美術史・写真史を横断しながら
半年間にわたり行われてきた
明るい部屋ワークショップ
「現代写真倶楽部」

第1期終了にあたり、着彩・コラージュ等の
手法を経て産み出された2m×5mの共同制作と
講師を含む個人による大全紙サイズの作品を展示します。
(DMより引用)

期日:2009年9月29日(火)〜10月4日(日)
時間:12:00〜20:00(最終日は19:00まで)
会場:企画ギャラリー・明るい部屋
   〒160−0018
   東京都新宿区須賀町1番村越ビル2階
電話:03−6380−5696
URL:www.akaruiheya.info

※「明るい夜」(オープニングパーティー)
 9月30日(水)20:00〜22:00
 予約不要・参加無料

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これだけでは素っ気ないお話になってしまうので、近況を。

僕のために怒ってくれたり、僕たちを推してくれたりしてくれる人がいるってのは、
いつも嬉しいですね。

それとは別の話ですが、

最近、

むちゃくちゃ撮影をして、
むちゃくちゃ絵を描いて、
むちゃくちゃ文章を書いて、
むちゃくちゃ話をして、
むちゃくちゃ修行をして、
むちゃくちゃ子どもと遊んで、
むちゃくちゃ山を駆けて、

ダブル搬入(友人命名)をこなしました。

そんで、作品構想(6作品ぐらい)の収拾がつかなくなる前に少しはまとめないとなぁ、と思い始めた今日の搬入中でした。

エグチマサル

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未知の領域

2009.9.20

 どんなに年齢を重ねても、新しい技術を習得するときは興奮する。それは、未知の領域に足を踏み入れるという興奮でもあるが、今持っている技術の向上や、マッピング的に他の事柄と繋がってくることからもとても興奮するのだが、習得するときの意識と気付くための意識を必要とされる。それを一言でいうと「気構え」と言い、気構えを持つということは、緊張感を持つということでもある。

 おそろしく興奮する。

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再び、最近のこと

2009.9.17

 最近、ドローイングやらデザイン業(修業?)の時間の方が多い。写真も撮影したりと、相変わらず多いが、時間的には前者の方が多くなってきた。僕は昔から、写真作品を創作するときもネタ調にラフを描いたり、クロッキーをしたりと「描く」ことが多く、線を引くことでも「線を描く」ことを重視してきた(ネタ帳に書かれる言葉も多い)。そして、CDのアートワークのデザインが好評らしく「あらまー」などと思ったりもしているが、先日、某コマーシャルギャラリーで作家さんと「企画展ってデザインっぽいですよね」という話をした。ギャラリストの意向(会場の性質)を聞きながら元々ある作品の性質を高めて発表するわけで、専門学校入学当初からそんなことをしていたのだから、その能力は高まっているのかもしれない。

 こっそりと発表するかもしれない。

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日本人が好きな最近の紆余曲折

2009.9.17

 昨日、とても素敵な時間を過ごすことが出来た。そのことについては最後に話すとして、それが素敵だと思えたのには最近の『制作日記』も載せるのが良いだろうと考え、今回は特別に『制作日記』も載せています(ブログ用に言い回しを少し変えたり、削除している点があるけれども、内容や言葉遣いなどほとんど修正していないので読み辛いと思います)。凄い長いです。

『制作日記』
9.11.09 22:11
「生きることにも飽きた」と最近よく思うようになった。藝術も哲学も宗教も、気付き、それを伝える術を変えながらも同じところに向かっていくものだが、現代においてはどれも必要とされていないか、金儲けの道具にされがちだ。その意識を取り戻し発展させていくのが今の時代で出来ることだが、足を引っ張り、邪魔をするのはいつも同業者だ。たかだか人間の出来ることやすることなど予想できるもので、そうなると社会の動きだって予想も出来る。そんな時に、最初に挙げたようなことを思ってしまうのだ。駅に行く度に、「このまま海のあるところまで出ようか」などという想いが頭をよぎるが、駅に行くときは用事がある時なのでそのまま用事先の場所に向かう。天国も地獄もあってもなくてもどちらでも構わないが、死は単なる「無」だ。醜くも綺麗でもなく、己にとって無だ。「善く生きられるのなら、生き続けなさい」と怒られそうだ。

9.13.09 11:00
『未来への方舟』について。ワークショップ「現代写真倶楽部」第一期の特徴は、美術前史〜写真史(現在)までを網羅しながら、共同制作/個人制作を進めていったことだろう。そして、現代人が見せ掛けの個性を謳うことに始終しており、それとは異なる姿勢が過去に見受けられ、過去の姿勢が文化や社会を発展させてきたのならば、その姿勢を無視することはできない。つまり、物事の本質を掴み、視覚化することで、制作を進めることが今回のワークショップの性質を表しながら、現代以降に必要なことだと提示できる。物事の本質を掴み、視覚化することが私たち美術家(写真家)に必要な能力である。「視覚化」を「○○化」と書くと、「物事の本質を掴み、○○化することが私たち——に必要な能力である」となる・・・そう、全ての人間に必要な能力だったのだ。美術は全ての人間に開かれている。

9.14.09 9:18
ある兵器の映像を見ていて、ぞっとした。どんなに「戦争反対」や「戦争の愚かさ」を謳い、論理的に話を進めていっても、軍事兵器開発は止めることはない。そんなことを見たり、聞いたり、意識が向かう度に自分たちのしていることが徒労のような気になる。美術は物質を扱うあたり、徒労に終るのならば地球にとっては害悪だろう。そんなときに絶望的な気持ちになるのだが、業界内の人達がこぞって述べる「絶望的な状況」というのは「アートで食っていく可能性」のことなのだから余計に自分のしていることが害悪のように思えてくる。

9.15.09 21:47
たけしさんの番組を見ていて思った。攻め込まれた時のために兵器を持つのではなく、他の生命体を巻き込む争いを避けるために話をする。人類は知恵を絞って同じ人類と協力して進化、発展してきた。つまり、空虚な常套句になり下がってしまっている「人は一人じゃ生きていけない」という文句があるが、まさにその通りなのだ。僕が食料を食べることが出来るのは、それらを作っている農家の人達のお蔭であるし、栽培したものを運んでくれる人、八百屋を営んでいる人がいるからであり、会社が作って売っているんじゃない、人が行っているんだ。同様に、僕たちがいなければ彼らはやっていくことができないわけで、そのような意味においても、僕にはあなたたちが必要で、あなたには僕たちが必要であり、個人が他者を必要とする点で全ての人は平等だ。平等ということは、人が人をお互いに必要としているのだから、どこかの国がリーダーになる必要はなくて、そうすると、どこかの国は別の国に攻め込む必要もなくなってくる。何故なら、人が人を必要とするのならば平等であり、余剰を求める必要がないことを僕たちが気付けばいいのだから、これらに気付くことができれば、攻め込まれる前に攻め込もうとしている他者と話し、自分が気付いたように、その他者にも気付いてもらおうとするだろう。これは外交だけれども、政治ではなく、哲学だ。話をするのならば哲学だし、作品を創作するのならば藝術だ、求められれば何処へでも話をしにいくし、作品だって創作し続ける。一人でも気付く者が出てくる限り、僕はやる、やるしかない。本当に、争いをなくしてやる。

 以上が最近の『制作日記』に書かれた内容で、修正箇所は固有名詞を「ある兵器」としたぐらいです。人間が今のままでいる以上は、戦争はなくならないと思うが、全人類が真理に気付いたのならば本当に戦争はなくなると考えています。このように書いていると「戦争をなくしたいから作品を作っている」と誤解を招きそうですが、時代も文化も超える普遍的な真理に気付けば、結果的に「戦争がなくなる」ことが付いてくるきます。そうすると、「真理って何ですか?」と言葉で質問されそうですが、辞書に言葉で書いています。ですが、これでは言葉と言葉のイタチごっこになってしまいます。本当のところ、多くの人が真理に近づいたり、気付いたりしているのですが、その実体的な感覚や状態を掴み損なっているだけです。藝術も哲学も普遍性を求めるものというのは、全ての人々がその実体的な感覚や状態を掴み損ねないようにするための橋のようなものです。ですから、言語化されたものも視覚化されたものも、言ってしまえば「嘘」の部分が混ざり、真理そのものではなく、人々が真理に到達するための道具なので僕たちが気をつけなければならないところでしょう。けれども、藝術作品からも言葉からも人々は変わっていくわけで、そのような人が自分の回りにも現れ始めてきたことに一抹の喜びを見出します。

 そして、話は飛ぶが、昨日のことを「素敵な時間」と述べたのは、明るい部屋に作品を届けに行ったら久々に中島さんとも出会い、そのまま明るい部屋の展示空間で、秦さんと中島さんと3人でのらりくらりと作家と作品についての話を何時間も出来たからだ。最近僕は、当たり前な質問をするようになっているのだけれども、そこで「常套句(模範解答)」を述べるか、「その人の言葉で述べることが出来るのか」ということをみてしまっている。もちろん、深く突き詰めれば、この2つの内容は同じことを言っていると気付くだろう。しかし、「考えて行動する人」というのは面白いほど、自分の言葉というのを持っているし、良い作品を創る人は大抵、自分の言葉で話している。そして、15日の日記を書いた次の日にそんな贅沢な時間を持つことが出来て、話している最中、僕はずっと興奮していた。加えて、「考えて行動する人」というのは作品を創る人だけではなく、どんな職業でもいるわけで、そうすると、作品や作家が社会と隔絶された特別な存在ではないことも容易に理解できるし、藝術というものが本来はとても開かれたものであるということも簡単にご理解いただけるだろう。

 今、とてもやる気に溢れている。

(「ですます調」と「である調」が混ざってしまって申し訳ないです。そして、今回はとても読み辛い言い回しが多くなってしまったことも重ねてお詫び申し上げます)

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未来へ

2009.9.11

 元木さんの展示に行ってから、神楽坂のアユミギャラリーへ。昨年度の新世紀、TG大大学院修了制作展と見続けたが、今回のが一番しっくりときた。神楽坂に降り立ったのはおそらく初めてで、展示を観た後に散歩をしていて「いい街だな」と感じた。何故だろうか?

 今月末から始まる、「現代写真倶楽部」の展示のDMを頂きました。今回は数が少ないので送って欲しい方は絶対にメールを下さい(先着限定15枚なので宛名も手書きで送っちゃうぞ)。パッと見、よくわからないけれどもカッコイイDMです。そして、このDMには共同制作の過程が載っているのですが、これを見ていて個人制作の作品が「これで良い」と確信しました。タイトルは「未来への方舟」です(たぶん)。展示の詳細は http://eguchimasaru.com/news0909.html に書いてあります。

 御高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

 エグチマサル

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追記2

2009.9.8

 「何になりたいですか?」という質問の答えが見つかったような気がします。

 「何になりたいか?」というのは「何として残りたいか?」ということとして捉えると、「あいつは藝術だったよ」と死んだ時に言われたら良いな、と思いました。「写真」という単語を用いた仰々しい写真集や映画のタイトルがありますが、「写真」というジャンルは未だ金字塔を建てていません。だからこそ、それらの写真集や映画が良作だとしても広く世の中に広がっていくこともなく、ただただ偏狭な人達の愛玩にしかなっていないのです。だから「写真」という言葉はまだ使えないのと(それを変えるために「写真家」を名乗っているのですが)、美術写真というのを大本まで戻ると藝術の領域なので、死んだ後はそう呼ばれたいです。同様に、「○○家」などの職業名も人という物質を特定してしまうもので、藝術も真理を求め、広く人々に伝え、気付かせていく領域なので、「藝術それ自体」として言われたら良いな、と。「○○家」などとして残ってしまうと人として特定されて私が残ってしまうけれど、時代も文化も超えるもの(性質、考え)が真理であって、藝術なのだから、そうありたいです。

 ん?質問の回答として間違ってる?まぁまぁ、そう言わずに。

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追記

2009.9.7

 今期最後のワークショップも無事に(?)終わり、残すは個人作品と搬入になりました。

 そして、昨夜は作業の前に明るい部屋メンバー全員vsエグチマサルの話だったのですが、毎回、訊かれると困る質問ナンバーワンの質問も出て来てしまい、結果、「これで良かったのか?」と疑問が残るものになってしまいました。その「困る質問」というのは、「好きな作家は誰ですか?」などの好きなものや人を尋ねられる質問です。時間との兼ね合いもあるのですが、全て出せたということが一度もなく、終ってから「あの人(あれ)を挙げてない!」と気付くことしかないのです(昨日は、西洋古典絵画に寄り過ぎていましたね)。そして僕の場合、「好きな人」というのはほとんどいなく、「良い仕事をしている人を良い」と思うだけなので、「嫌いだけれども、良い仕事をしている」と思ったら、それが全てだと思うのです。と、言う訳で、ちょっと挙げていこうと思います(敬称略ですが、怒らないで下さい)。

 スワヴォルミ・ルミャック、ジョエル・ピーター・ウィトキン、アントワン・ダガタ、全光榮、高木正勝、マン・レイ、M・デュシャン、ルネサンス期の藝術家たち、印象派の画家たち、ブラック、パウル・クレー、ゲルハルト・リヒター、俵屋宗達、尾形光琳、本阿弥光悦、池田晶子、佐々木健一、中村桂子、原研哉、紀里谷和明、ジャクソン・ポロック、池内了、Blankey Jet City(解散後の活動も含まれます)、Thee Michelle Gun Elephant(解散後の活動も含まれます)、BOOM BOOM SATELLITES、デヴィット・ボウイ、菊池成孔、菅野よう子、ダニー・ボイル、S・キューブリック、夏目漱石、芥川龍之介、重松清、いしいしんじ、古川日出男、湯本香樹実、池田進吾、ヴォルフガング・ティルマンス、諏訪敦、サルバドール・ダリ、杉本博司、細江英公、円山応挙、ルドン、ロダン、ドヴォルザーク、ヘーゲル、ウィリアム・エグルストン、上田義彦、ダミアン・ハースト、マシュー・バニー・・・ざっと挙げてみましたが、これでも足らない気がします(ジャンルが狭いし、若手が挙がっていないし)。そして、マンガや作品だけでも挙げていったら大変なことになります。

 昨日はマンガを使ったハウツーを言いましたが、あれは絶対であるとともに、どんな写真学校でも美大、芸大でもおそらく教わらない方法だと思います。そして、やるかやらないかの少しずつの積み重ねが、大きな差になります(CMを使ったハウツーもありますが、それは日を改めて)。例えば、「東大・京大で一番読まれた本」として最近話題の『思考の整理学』ですが、僕の住んでいる所は私立大学としてトップに挙がる大学があり、その近くの本屋ではやはり売り切れていました。その本は、やはりハウツーになってしまっていて、各セクションで大切なことは一行ぐらいしか書かれていません。しかし、一行ぐらいだとしても大切なことが書かれており、尚且つ、「買う」、「読む」、「試してみる」ということをする者と、そうではない者、そのちょっとの違いの積み重ねが大きな差となって表れてきます。在学中からコンペに出させてもらったり、小さい賞で出した後でも必ず知らない人達から反応がくるのは、その小さな積み重ねによって表れた差です(話を聞くと、コンペに通っても知らない人から反応がないことの方が多いようです)。そして、全く関係のない領域にいる人達からも反応があるというのも、同じことが言えます。

 そして、小さい積み重ねというのも、「ただやってみる」ことが重要なのではなく、「考えてやってみる」ということが重要となります。ワークショップを通して僕が最後に言えるのはやはりこのことです、「考えて行動する」。

 最後まで、来てくれた人達、依頼してくれた明るい部屋の方々、告知を手伝ってくれた友人たち、ホームページを作ってくれたせっきーね、心から厚く御礼を申し上げます。ありがとうございます。良い展示にしましょうね。

 (話の中で三木さんから『バガボンド』のことが挙がりましたが、あのタイミングで挙がるということは何かあったのかなぁと思いつつ、時間の都合上、そのままの流れで話を進めてしまいました。もしも他に聞きたいことがあったのならとても申し訳ないことをしたなと帰り道に考えていました。もしも何かあったら、また後日に。たぶん11日に明るい部屋→アユミギャラリーの順で行くと思います)

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昨日から度々、ベランダにニャーゴがやってくる(放置)。

2009.9.6

 昨日午前中、念入りに掃除をしていたせいで鼻水が止まらなくなり、引き続き本日も鼻水が止まらない。鼻水と言えば、ネギや生姜などが有効と言われているが、本日の主役はネギだ。

 昨日のお昼ご飯で肉味噌を作ろうと思い立ち、八百屋で食材を買って来てネギを取り出し、無防備な姿の「そいつ」を眺める(ちなみに、僕は関東人なので、「ネギ」と言った場合は「白ネギ」のことだ。別段、悪気がある訳ではないのであしからず)。独特の辛みと匂いが苦手な人もいるが、これがネギの醍醐味と言う人もいる。そうかと言えば、炒め煮や鍋物に入れれば甘みととろみが現れはじめ、それが苦手だと言う人もいれば、それが好きだと言う人もいる。扱い方の手軽さと相反して、生でも火を通しても存在感を持ち続ける「ネギ」。どんなコミュニティ(料理)の中にそれとなく入っても、いつの間にか存在感を放っているその姿は、同じ生命体として師匠に値すると言っても過言ではない。

 話は変わり、先に挙げた東日本の「白ネギ」と西日本の「青ネギ」、これらに言及していこうと思う。育て方の違いで、白い部分が生まれてくるらしいが、土をかけることで葉の部分を隠し、食すときにその姿を現した方が「ネギ」の特徴が高まるという育て方は、どこか人間のそれと似ているように思われる。性質を目に見えないように隠し、溜め込み続けることで、それが顕現した時の爆発力は、目に見える形で出し続けているものの力とは比べ物にならない。現代での悪い例として、ストレスを適度に発散している人よりも、ストレスを溜め込み続けた人の方が、より深刻な状況となることが挙げられる。しかし、ここで勘違いしてはいけないのが、目に見えない形だとしても「続けている」ということであり、作品を創っていない者や、作品と関わることをしていない者が、突然、(静的な作品だとしても)爆発力を持った作品を創ることが出来ないことと同様なのである。それ故、作品を創っていない時であったとしても、作品と関わらせて行動し、関係のない(ように思われている)日常を作品と結びつけて緊張感を持って過ごすことが、「目に見えない形で続ける」ということになるのであり、「白ネギ」と同様に、ネギの特徴が強まるのである。

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何を休めというのか?

2009.9.4

個展終ってもあれやー、これやー、で動いてましたが、これから休みに入ろうと思います(明日まで・・・短い)。

夏休みもなかったのにね・・・暗い。

けれども、節制の生活や体を鍛えるというのはやはり精神性に還ってくるから面白い。

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