Archive for 2009.6

「道」と「礼」

2009.6.30

こんなに作品を創っていると勘違いされることがあるが、

僕に「やりたいこと」なんてものはなく、言ってしまえば現代人の大半が持ち合わせている「生き続ける意志」というものも持っていない。
やりたいことをあえて挙げていくと、所謂、悲観的なこととレッテル貼りされているようなことばかりが思い浮かぶ。

それよりも大切なのは、信念を曲げないということであり、その行いは「道」の精神と近いかもしれない。

そんな僕に対しても生きさせようと頑張ってくれる人がいるわけで、そういうのを見るとこっちも頑張ってみようと思ってしまうのは、「礼」の精神と近いかもしれない。

これらを合わせると「克己復礼」ということに近づいてくる。
つくづく、この名前の掌の上にいるような気がするが、あながち不快感は抱いていない。

普段とは違う方法を特訓しています。

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美しい時間

2009.6.22

今日は聡明な女性と出会いました。

作品や作家としてのスタンスのようなものを英訳していただくために面談というか、打ち合わせのようなことを10分弱(だと思う)の間していただいたのです。それは、英訳という1つの目的地に向かって言葉を交わしていくわけですが、この言葉の掛け合いのテンポが非常に速度があって素晴らしかったのです。先に僕が提示させていただいた文章(言葉)から、足掛かりとなるところを見つけて言語化し、それに対して次に繋がるように言葉を返して進んでいったのです。この「ある目的地に向かって、他者と一緒に進めていく作業」って、「共同で作品を創る作業」と似ていますね。

むしろ、相手と私がいて成せる事柄という意味では同じなんですね。そこでは相手の特徴も瞬時に見なければいけなく、しかもそこへ瞬時に反応を返さなければならない。特に時間が限られている場合には、その瞬間の受け返し( or フィードバック)の能力が高くなければならない。仮にその力が低いと思うのであれば、高めれば良いだけの話で、そこには鍛錬が必要になってくるわけです。

つまり、意識的に必要なことを考え、鍛錬をつむことが必要となってくるのです。

具体的なことは何でしょうか?

ここでは文字数などの関係で割愛させて頂きますが、

1つ言えることは、

日々の積み重ねは(あまり)裏切らない。

と、いうことは、

いきなりその現場でしようとしても出来ないということです。

日々を意識的に。

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空白

2009.6.20

今週は色々なものを読み、聴き、観ました。

創作では現在、「光学装置の記憶」シリーズを進めているわけですが、いったいこの作品に何千時間、何万時間費やしているのだろうと・・・。公表する創作期間には、構想期間は含まれていないので、大体がかなり時間がかかっているのです。
そして、かなり地味な工程でこのシリーズは進んでいくので、そんな時はTVの不毛ともいえる音を流しっぱなしにしている方が、進みやすいです。他の作品とは違いますね。けれども、湿布などが必要になってくるのは他の作品と同様です。

東京大学出版会から発行されている『UP』という雑誌をちょくちょく読むのですが、今月号の「すずしろ日記」(山口晃さん作)の内容がどんぴしゃでした。いい加減携帯電話のスケジュール機能ではなく、スケジュール帳を年の節目に買おうかといつも思うのですが、大抵創作の毎日なので、スケジュール帳が予定で埋まるということはないのです。だから予定の合わせ方に相手側から「自由でいいね」と言われたりもしますが、創作のペースが崩れちゃったりするのは一大事でもあるんですよね。

読み、聴き、観ることがつづくと、作り手として生命体としてベストな状態をいかに深められるかが重要な気もします。

空白といえば、次回の展示ではその要素がとても重要になってきます。

※ artscapeというwebサイトの展覧会レポートに、先日の秦雅則さんとの二人展のことを飯沢さんが書いてくれました。「叫び」という言葉が出ていたのは少し驚きました。とうとう当てられちゃったね、という感じです。とても嬉しかったです。ありがとうございました!

artscape

↓掲載記事ページです。

http://artscape.jp/report/review/1205687_1735.html

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柔らかいと譲れない

2009.6.11

展示後一週間は片付けや整理などで間の抜けた生活はなかなかできません。

展示にきてくれた友人から「papabubble」というお店(?)の飴をもらった。
漫画に出てきそうな大きさの棒つき飴ちゃんという雰囲気の飴です。
かなりジャンクな味を想像させる外見とは違い、おしゃれな味です。

それとは別の話ですが、6月9日、所謂「ロックの日」に免許の更新にいきました。偶然ですよ。

何故、これほど関係ない話が続くかというと、最近、受付やお店の人たちの対応が柔らかいような気がするからです。
それは学校関係やギャラリー関係などにおいてもそういう対応が多くて、自然と柔らかい気持ちになります。
けれども、大事なことは譲れないっすよ、ということが一番です。

もうちょっとで整理なども終るのでしっかりと創作に取り掛かれそうです。
やはり、色々な作品が同時に進みそうです。

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幸運なことと悲しみ

2009.6.8

秦雅則さんとの2人展「破壊する白 と 創造する黒」もあっという間に終了しました。

企画の話があがったのがおそらく昨年の12月ぐらいだったと思うけれども、打ち合わせの方にかなりの時間を割き、実質の創作期間は1ヶ月半ほど、そして2週間の展示期間は一息のうちに過ぎていったような速度だった。
2人展をする機会というのは他でもたくさんあったが、展示後の状況/状態/進退度というのが読めてしまい、なかなか開催に至ることはなかった。そんな訳で今回が初めて開催に至った2人展であり、来場者の反応も予想以上に良かった。これは直接的に「良い」ということでもあり、もう一方で、つまらない批判が少なく、良い批判つまり批評の類いの反応が見受けられたのは、良かったことだろう。

ただ、展示もそうだけれども活動を進めていくということでは悲しいものがやってくるのは避けられないことでもある。

たとえ名があったとしても、富を得ていたとしても、力を得ていたとしても、ひとの畑に来てまで無礼なことを意図せずにしてしまえている時点で反吐が出てしまう。そこに「悪気がない」という言い訳は通用しなく、商品をつくることに折り合いをつけることができないことと同様、それらに流されることができないことが現代社会において生きることができないのならば、僕は生きることに価値を見出せない。それを忘れてまで愛想笑いをし、媚び諂い、浮き足立てるほど、僕は人間ができちゃあいないし、そこまでして生きることに、そこかしこの環境に未練はない。やはり、最期っていうものが見え始め、一日一日っていうのが「残り時間を失っていく」と感じてしまうのは、そういうことなんだろうが、コレクターのN氏の行動に僕は信頼を感じる。

作家がいなくとも作品を手元に置こうとしてくれるその姿勢と行動に、僕は信頼感を向けてしまう。

そのような御方が作品と出会うというのはまさしくセレンディピティだと考えられるし、この展示期間中は展示会場以外の場所でもそのようなことが度々あり、素敵な時間を過ごせていたのではないだろうか。そして、偶然だが秦雅則さんとの出会いを作ってくれたUさんがこの展示を喜び、楽しんでくれたことや、同世代や異世代、領域外の作家・作り手たちや学生時代から期待してくれている評論家の方たちが喜び、楽しんでくれたことが、僕たちにとって最良の喜びだったように思われる。

そして展示が終ったいま・・・

さて、どこにいこうかな。

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良いもの

2009.6.2

昨日は映画「GOEMON」と森アーツセンターギャラリー開催中の「メイド・イン・カッシーナ展」を観ていた。

紀里谷和明監督作品は「CASSHERN」の時もそうだったが、体感するような鑑賞方法をしたくなる。
それ故、後部席から全体像を観るということよりも、疲れるとわかっていながらも前よりな席を選択してしまう。
自由の代償は最後まで払拭されることはなかったのだけれども、とても良い映画だった。
途中、鎖骨まで流れるほど泣いてしまったりもしていた。

「メイド・イン・カッシーナ展」は友人と観に行き、途中にあったソファや椅子に座ることができるコーナーによって、展示の感覚が実体となった。でも、テーブルの方が欲しいと思っていたりもしていた。

その後、大学時代の友人が働いている酒場でお酒を呑んでいたのだが、やはり、友人と呑むと呆気ないほど気を許してしまっている。
仕事関係で呑むときには見せることのないような、ありえないほど油断している姿を晒してしまうのだけれども、先ほど髭を剃ろうとして鏡の前に立ったら、鏡に映る瞳に輝きが戻りつつあった。

良いものを観て、良いものを呑み、食い、そして、良い時間を過ごす、そんな単純なことが輝きを取り戻す契機になるのかもしれない。

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