Archive for 2009.3

ぼたもち

2009.3.24

WBCの放送を横に置いて、スキャンと大判対応の創作。

これでひとまず『最期の自然』が一段落つきまして、時期的にもそろそろ個展のお礼状に載せるものを決めないと・・・。次の展示はおそらく五月末ぐらいからなので、そこに繋がるような画像にするのかは迷うところ。

それとは別に、今回の搬出日にcountzeroでの音楽やら何やらが変わるのかもしれません。逆につぶされちゃうかもしれないよ、geometric universe 。可能なら詳細は近々お知らせします。

それとも別に、数作品同時に進んできた創作がそろそろ落ち着いてきたので、冷たい石に情感を抱いて花でも持っていこうか。

失った人も、失ったものも戻ってはこないけれども、失ったものがあれば得るものもあるというのは1つの欺瞞のようにも思えている。

今年は何を話そうか。

草稿のようなもの2

2009.3.22

「『最期の自然』の着色が終った。寂寞感というか、荒廃、荒む、といった感じだ。「もう終った」というような思いが広がっていく。『drunker×2』や『光学装置の記憶』も手が付かないようにひっそりと沈んでいく感覚がしている。終わりだ。(3.20.09 13:01の制作日記より引用)」

作品があって、私がいる。すなわち、私は作品の媒体物として存在していると思っている。これは信仰のレベルに達しているといっても過言ではなく、「何のために生きているのか?」という問いへの解答としても君臨している。この媒体物としてのもてるもの全てをかけたのが『最期の自然』であり、創作に入る前から先に書いたような感覚を抱くかもしれないと予想していた。そして、「終わり」を感じてしまった。その洞察を深めたくて、20日は制作日記を書いてから夜が明けるまで作品と向かい合っていたのだが、感覚は変わらなかった。

そんな状態の中で3回目の在廊日を迎え、都立大学駅にあるテルメギャラリーに行ってから会場入りをした。既に会場には来場者がいて、みるみると満席、立ちっぱなしの状態になり、多くの方々と話をした。面白いのは、写真新世紀関係、大学時代、全くの他領域の人たちが同じ場所にいて、初対面で他領域の人たちとも話をしている光景が普通にあったことだ。私が話すと、作家たちとは作家業や作品のこと、サラリーマンたちとは世間話や下ネタなどと方法論がわかっているので新鮮味ということでは、知らない友人同士が会話をしている光景を眺めているときの方が新鮮な感覚をもっていた。

ただそんな風に眺めているときというのは、「あぁ、T大学駅にいたひとが可愛かったなー」や「あぁ、あのひとも綺麗だなー」など鼻の下が伸びていることが多々ある。

そして、作家業の話をした人たちの新作を観たいと思ってしまうし、観たらもっと話をしたいと思うんだよね。それは中島さんにも秦さんにも東京くんにも同様に思うことで、その作品が良かったらやっぱり悔しさが湧くのは当然なんだよね。なぜなら、土俵に上がっているからで、私たちは鑑賞者になっているときでも創る土俵に上がっているからなんだろう。

けれども、20日の感覚は薄れていないまま22日のAM8:14を迎え、たしか今日は「新日曜美術館」が放送されないので風呂に入って歯を磨いて2日分の睡眠をとろうと思っている。

※展示をすると毎回色々なものを頂くので、毎回励み(?)になります。ありがとうございます。これが朝食や肴になります。

20年前からの・・・

2009.3.16

小学校一年生時の担任だったS先生から、ぼんたん(ぶんたん、文旦)を頂く。

経緯は割愛させて頂くが、僕の活動のことを知って、贈ってくれたのだった。柑橘系が好きなことを覚えていてくれたとは到底思えないが、活動を知った昨年末から展示を観に行ってくれていたらしい。

丁度20年前に小学生になったときには、僕がこのようなことになっているとは予想だにしなかっただろう。

昔のことを思い出すと、今日まで生きたことがあっという間だったような、とても長かったような複雑な気持ちを抱くのだけれども、
今回は少し異なり、温かい気持ちを持ちながら、ぼんたんをしばし眺め、香を楽しみながら創作をするのだった。

草稿のようなもの

2009.3.15

2回目の在廊日。

そのような理由もあって、2つ展示を観てから会場へ向かう。

その2つの展示というのは、1、昨年の写真新世紀の時に知り合った友人の中島大輔さんが参加しているグループ展。2、大学時代の後輩たちが催している卒業制作展。グループ展という意味では同じであるはずなのに、その意味合いは全く異なっている。1つは作家として、藝術作品として展示している展覧会であり、もう1つは自分たちが展覧会を開くことに意味がある展覧会である。
どちらが正しいのかは正確には述べることは出来ないはずだが、立地的にも来場者数が多いのは後者である。しかし、その来場者たちが、藝術作品を趣味(× taste ○ hobby)と弁別する能力があるかといえば、おそらくその違いはわからず、藝術家に対して何も払わずに済ませていることに何の引け目を感じることもないだろう。けれども、この状況というのはコマーシャルギャラリーへの来場者にも同様のことが言え、彼らは自分たちがどれほどのお得な状況にいるかということを理解していない。
それ故に、折り合いをつけることが出来なかった藝術家が自殺をしようとも、何の罪悪感を抱くことはないのである。

この現状の悪循環は、作り手にも蔓延しており、発表自体が自己満足で完結させてしまう作り手が多い、というのも事実である。

けれども、僕は藝術作品は創造性の循環をもたらすものであり、藝術家は作品を作りたい作りたくないということではなく、藝術において創ることを訴えかけられている作品を藝術として創らなければならないと思っている。これは職人仕事としてクライエントに求められているもの以上のものを表出することと似て非なるものであり、藝術はクライエントが実体として存在しておらず、だからこそ、藝術家は藝術という領域の価値を上げ、時代も文化も超えたところにいる人々にさえ創造性を豊かにしていくことに注意を払わなければならないと考えている。その鑑賞者にもたらされた創造性は、作品に倍加されて還元され、この循環がスパイラルとなって後世まで藝術作品が残る要因になるからだ。
たとえば、僕たちが先達の作品の時代背景に生きていなくても、もしくは知らなかったとしても、その作品から創造性を豊かにされ、作品を創ることができるようになるということが挙げられる。これは作品を創ることにならなくても、生活について考えが豊かになることでも同様のことがいえる。そのような作品が藝術作品の最大の魅力のはずであり、僕たちが意識しなければならないことであるはずだ。

しかし、現代美術業界やそれに準ずる業界では、商品としていかに回せるかが重要となっている。しかも、その業界のことや作家のことを門外漢の人たちには知られていないという、芸能の面においても取るに足らない悪状況に至っているのである。

また、その悪状況に気付いているのならば、これを終らせなければならないと意志を持つことが大切になってきている時代にもなっている。

※中島大輔さんが参加しているグループ展
 成山画廊にて3月21日までです。
 とても落ち着いた佇まいが静謐な会場です。

※後輩のグループ展
 東京藝術劇場にて3月15日までです。
 池袋駅から直結しておりアクセスにも優れている場所です。

Peta tto shitenaiyo !!!

2009.3.13

創作と、明日渡すデータの整理。おそらく三人くらいに別々のデータやら情報やらを渡すのでその整理を着々と進めていたはずが、なんだかんだでとっちらかる。おそらくこれでオッケーのはずだ。

それとは別に、踏ん切りがついていないような自分をみたので「髪を切ればいいんじゃない?」と思い立ち、髪を切りました。

直毛なので短くすると髪の毛が浮いてしまうため、今回は数年振りにプロの美容師さんに切ってもらった・・・はずが、浮いてますよ。
童顔なので浮いてしまうと幼子のようになってしまうのですが、どうせならそれを活用してみようかとも思いますが、もしかしたらまた坊主にするかもしれません。