Archive for 2009

緊張感の後はニヤける

2009.11.26

 創作と額装。創作の方がゴールがないものとして思われがちだが、果たして本当にそうだろうか? 見えていなければ作ることは出来ない。輪郭もぼやけているほどの見え方だったとしても、進もうとしている者であれば、誰もがある確かな光(闇)に向かっているのではないだろうか? そうであるのならば、その確かな物の存在ははっきりさせて見えた方が良いとは思わないだろうか。見えている物が確かであればあるほど、脱線している時や遠回りしている時も意識的なところも無意識的なところ(ハッとするようなところ)も自覚が出来、自覚が出来れば、そこからの吸収率も上がる。

 話は飛ぶが、額装って楽しいよね。額を見て「オォォーっ」、剥離紙を剥がして再び「オォォーっっ」、作品が収まった状態を見て三度「オォォーっっ!」。依頼業、本当に配送以外の全てをやるようになってしまった。

タイミング

2009.11.21

 大倉集古館へ「根来」展を観に行っていた。夏過ぎに招待券を頂いて、凄く興味を注がれていた展覧会だ。その期待を裏切られる事はなく、心の奥底を澄み切らせてくれるものだった。そして、声を聞く。「作れ」と。「ただ正直に作れ」という、僕自身の声が聞こえていた。2階のテラスに出ると日の沈みかけた空気が僕に緊張感をくれ、その感覚だけで作品を創れると思っていた。

 次の日、他の作品との兼ね合いで損得勘定が頭をよぎり、頭から煙が出そうな感じだったので、「タイミングが合わなければ止めよう」ということを思って大判出力をしにいったら、タイミングが合った。スパークしたという感じだ。
 やはり、良い。良い1枚だ。限られた人達しか観る事が叶わないのが惜しいが、良い1枚だ。何だか昔の藝術家みたいな感じになってきているが、現行の写真家や美術家のやり方が合わないので、この方が自分には合っているのだろう。

 しかし、その場所で出会った青年から「いつも見てます」と言われ、事務の人とバタバタしていたらいつの間にか彼はいなくなっていた。「緊張感が大切だ」と思った。

 それとは関係ないが、「エグチさんにとって写真って何ですか?」、「エグチさんにとって美しいって何ですか?」、「エグチさんにとって良い作品って何ですか?」、「エグチさんにとって藝術って何ですか?」と質問されるときがあるが、「○○さんにとってー」となっている時点で藝術ではないと考えられる。普遍的なものに興味があって作品を創るから藝術をやっていると言えるのであり、個人的な事柄から創作が始まったとしても、それを普遍的な事柄へと結びつけることが出来るから、それが藝術となるのではないだろうか。そして、藝術の領域で写真を媒体にしているから写真家を名乗っているのである。これは、野球選手もサッカー選手もスポーツ選手であるように、写真家と藝術家は本来分けて考えるものではない。仮に分けて考えるのであれば、写真を媒体にして藝術領域にいる人のことを何と呼ぶのだろうか? 分けて考える人達は、現代美術家と呼ぶのだろうが、そうすると別段、写真を扱わなくても良いことになると考えるのが妥当である。つまり、名称としての純度を高めるのであれば、写真家は藝術領域で写真を扱う人とするのが妥当であり、別個に考えるものではない。

Cさんがめちゃくちゃ凄いと思った

2009.11.16

 昨日、技術を覚えていた。今日はその復習。いつも思うが、新しいものを感知したり、習得するときはとても興奮している。創作現場外ではおそらく最も真面目な表情が見られるだろう。そして、大事な事が復習。知識を知恵として活用するためには、手に入れたものを無意識下で扱えるほどに習得する必要がある。それには、ひたすら意識的に錬磨することが手っ取り早い。

 何も出来なかった、繋がらなかったことが無意識的に出来たり、繋がったりしたとき、自然と笑みがこぼれる。と、いうか自然な表情になっているだろう。そして、また掴み損ねないように錬磨を繰り返していくから、その強度も増していく。こうやって日々を歩んで来て、早27年。地道なことが面白い。

美しい人

2009.11.13

 最近もよく人と会っている。相変わらず僕は同じ主旨のことを話しているが、今創作中の作品を見せる機会がある場合は必ず見せて感想を聞いている。嘘か本当かはわからないが、良い感想をもらう。今のところどういう落ち着き方をするのかは、まだまだ伸びしろがあると思うので何とも言えないが(向上には欲深い)、現時点での最後の1枚からくるものは、とてつもなく清らかだ。

 それを見ながら「僕は僕に導かれていた」と気付き、それはとても嬉しいことだった。作品を観ていると澄んでくる。そんな作品と出会い、関わることが出来たことが、最良の幸せなのだろう。

過去から今

2009.11.7

 『レッド・クリフ part1&part2』を続けて観ていた。地上波で「part1」が放送された時は観る事が叶わず、少々残念だったが、CMを挿まないで観た方がテンポが崩されずに観れたのでむしろ幸いだった。「part1」の方がテンポも見せ方もドラマ性もあったように思えたのだが、トータルではよく楽しめたし、カメラワークなど勉強になっていたし、小学校時代に横山光輝先生の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』を好きで良く触れていたので、より一層楽しめた。

 そして、そういう過去のことを思い出しながら、ふと、空の景色が浮かんでいた。

 空を眺めることで全てが十分だと感じていたし、感じている。今では、「空を眺める」ことを思うだけで、それを観る事が出来、それを体感する事が出来る。そのことは「空を眺める」だけに留まらず、全てにおいて「思う」ことで体感することが出来る。その強度は増すばかりだ。私だけで良いのならば、具現化は必要がない。「思う」その瞬間こそが絶対的なのだ。